M.S.CITY 15th Anniversary

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 ドアを開けてその店に入っても、音らしい音はない。
 バーにふさわしい音楽も、ドアが閉まる音さえ聞こえない。
 カウンターの中にいるのは、黒いシャツに、黒いロングのソムリエエプロンを身につけた、一見すると陰気な印象のバーテンダーだ。長く黒い前髪が、ほとんど目を覆い隠している。
 カウンターの端の席には、いつも、常に、同じ青年が座っている。黒いコートを着た、短髪の、アジア系の青年だった。
 誰がいつ来ても、バーテンはひどく無愛想で、ひと言も口をきかず、グラスやボトルを磨いている。たまに、ナッツやチーズをガラスの器に盛ったり、ワインをグラスに注いだりしていた。バーテンらしいこともしているのだ、たまには。……たったひとりの客と思しき、青年のために。
 その日、ドアが開いた。
 カウンターに頬杖をついていた青年が戸口を見る。
 その日は、その日に限っては、珍しいことに――バーテンも手を止めて、来客を見た。じろりと、見た。
 青年は、ある物語の猫のように、人を食ったような笑みを浮かべる。
「やあ。〈死者の牙〉にようこそ」
 そしてバーテンに代わって、歓迎の挨拶をするのだった。




 この店もずいぶんと寂しくなったな。
 いつしか、ハイドは、そう呟いた。
 黒いコートを着てドアを開ければ、行きたいところに行くことができる。しかし、その力を私用に使ったことはなかった。まずは、『もうひとつの職場』に行くのが常だ。それから、現場に行くか、『本来の職場』に戻るか。ハイドの本来の職場は、黒澤組という小さな暴力団の事務所だ。黒いコートは、事務所のロッカーに入れてある。最近は、保管場所を自宅に移そうかと考えているのだが、いつもついつい忘れてしまうのだ。……頭が、悪いから。
 ハイドのもうひとつの職場は、〈死者の国〉というオカルト用品店だった。そこで、狩人をやっている。誰からも感謝されず、誰の記憶に残ることもない、『狩り』の仕事を請け負っている。店主アンクウは、狩人たちのことをカマキリと呼んだ。
 一時期、この店は賑やかだった。
 店が抱える狩人の中でも、腕利きで、この仕事が好きでたまらない野郎どもが入り浸っていた。アンクウは彼らのやる気と功績を評価し、狩人としてのランクを上げ、クロカマキリと呼んでいた。彼らには、難易度の高い、特別な仕事が斡旋された。
 ハイドもそんなクロカマキリといっしょに仕事をしたことが何度もある。
 彼らはずいぶん仲が良かった。とは言っても、ぶっきらぼうな野郎どもばかりで、学生グループのようにわいわいやっていたわけではない。言い争い一歩手前になっているところを、ハイドは何度も見てきた。それでも彼らは、仲が良かった。
 しかし、ハイドは知っている。
 どんな集団にも必ず終わりが訪れる。それはたいてい、突然、やってくるように思える。だが必ず、予兆があるのだ。特に集団の中にいると、終わりが訪れるまで予兆には気づかない。あとになって気づくものだ。『予兆』だというのに。
 今、クロカマキリはひとりだけになってしまった。
 彼らの名前は知っていたが、その素性までは知らない。興味がなかった。向こうもハイドとはあまりかかわり合いになりたくなかったようだ。それはハイドにとっても有り難いことだった。カタギとの付き合いが苦手なほうだったから。
 この稼業の利点のひとつだ。一夜限りの付き合いというのが多く、互いに素性を詮索しない。コードネームのようなものを店主に勝手に決められる(しかし、その名前は不思議と、納得のいくものでしかない)ので、本名さえ明かさなくていい。
 ハイドには、この仕事での相棒と呼べる人間がいなかった。探す気にもならなかった。
 それでも――。
 いつも見かけた顔がひとり、またひとりと減っていくのを見るのは、寂しいものだった。裏社会で恐れられるハイドも人の子だ。友人知人が死ねば悲しくも寂しくもなる。
 そしてたったひとり残ったクロカマキリも、店に入り浸ることはなくなり、仕事から仕事へ飛び回るようになった。ハイドと同じだ。死者の国は、彼にとって、ただの中継点になってしまった。
 この店もずいぶんと寂しくなったな。
 いつしか、ハイドは、そう呟いた。
 アンクウは、なんでもないことのように、そうかなあ、と微笑しただけだった。

 しかし、ある日だ。

 ハイドが黒いコートを羽織って死者の国を訪れると、まったく見覚えのない大男がひとり、店の真ん中でテーブルを挟み、立ったままアンクウと話をしていた。ハイドは少し驚いた。本当に、見上げるほどの大男なのだ。ハイドの身長は192センチあった。日本では、人を見上げることがほとんどない。男は、確実に2メートル以上あった。体格もがっちりしている。
 しかもその男は……、たったひとり残ったクロカマキリが身につけているような、漆黒の軍服を着ていたのだ。似たような軍帽もかぶっていた。ハイドは、一瞬、クロカマキリがいつの間にかもうひとり増えたのかと思った。
 だが、
 ちがう。
 軍服の大男はアンクウとの会話を中断して、ハイドを見た。彼の顔や軍服をじっと見つめれば、なぜか、ハイドにはわかってしまった。彼は、クロカマキリではないと。それどころか、この死者の国にも関係のない人物であると。
 軍人の顔は真っ白と言ってよかった。血の気がまったく感じられない、白磁の肌だ。目深にかぶった軍帽のつばの陰の中、金色の目がかがやいている。軍服も軍帽も立派なものだった。特に際立っているのは、飾緒が白銀の鎖であることだ。
 計り知れないものを感じた。
 ハイドはよく野生のカンがするどいと言われる。今もきっと、そうだ。野生のカンと動物的な本能が、あの男に不用意に近づくなと言っている。
「やあ、ハイド」
「デケェ新入りだな」
 ハイドはそれだけ言って、手帳を出そうとした。カマキリに支給される特別な手帳だ。アンクウからの狩りの依頼は、この手帳に記される。死者の国に入るたび、自動的に更新される仕組みになっていた。どんな魔法が使われているのか、それはカマキリたちにとってどうでもいいことだ。そういうもの、なのである。
 しかし、アンクウがくすりと笑って言った言葉に、ハイドの手は止まってしまった。
「このひとは新入りじゃないよ。わかっているんだろうけど」
 アンクウには、なんでもかんでもお見通しだ。ハイドが、自分より大きいこの大男に興味さえ持ってしまったことをも、見透かしているだろう。それがなんとも苛立たしくて、ハイドは思わずアンクウを睨みつけてしまった。
「彼は、アンスル少佐。ちょっと相談をされていたんだ。……ああ、ハイド、きみなら、彼の力になれるかもしれないなあ。ちょうどよかった」
「……なに?」
「そう睨まない睨まない。まあ、ふたりとも、座ったらどう? お茶を出すから」
 いくら睨んでも、凄んでも、アンクウは動じない。恐怖という感情を持っていないようだ。そもそもこの男が人間ではないことはハイドにも察しがついている。ヤクザごときが――いや、人間ごときが、どうにかできる存在ではない。
 そしてテーブルを挟み、ハイドの正面に座った大男もまた、人間ではなさそうだった。
 アンクウはハイドとアンスル少佐の前にカップを置き、紅茶を注いだ。
 ハイドはコーヒーも紅茶もあまり飲まないが、アンクウが淹れる紅茶は好きだ。この店に来る男たちは、どういうわけか、アンクウの紅茶が気に入ってしまう。たとえコーヒー派であってもだ。
 少佐は紅茶をひと口飲んだ。
「……おいしい」
 初めてまともに、ハイドは彼の声を聞いた。
 ひどく、心地いい声だった。
 アンクウはいつもの笑みを大きくして、ありがとう、と答えただけだ。
「桐生灰人(きりゅうかいと)。きみに協力をお願いしたい」
 ハイドはぎくりとした。
 桐生灰人というのは、ハイドの本名だ。この店で、誰かに本名を呼ばれるのは初めてだ。すると、アンクウがすかさず助け船を出してくれた。
「少佐。彼はここではハイドって呼んであげてほしいんだ」
「了解。ごめん、ハイド」
 ごめん。
 どこからどう見ても軍人で、ハイドよりもひとまわりは大きい巨漢が口にする言葉としては、ちぐはぐだ。発音は完璧なのに、日本語を知らないというのか。
 アンスル少佐は無表情だった。呆気に取られているハイドにかまわず、彼は話を続けた。
「きみは『死者の牙』という店を知っているだろうか?」
「あ? ……いや、知らねェな」
 でも、名前からして、この店とは関係がありそうだ。
「では、アルカンシェル、ヨウ・ハという人物に心当たりは?」
「ある」
 ハイドは即答した。
 そのふたりの容姿も、声も、忘れもしない。ある日忽然と姿を消した、クロカマキリのふたりだ。そして……、ハイドをこの稼業に誘ったふたりだった。
 ふたりがどこに消えたのか、ハイドはアンクウに尋ねなかった。アンクウは質問にならばなんでも答える。だが、聞かないかぎり、何も話さない。
 ハイドがふたりの行方を尋ねなかったのは、興味がなかったから、ということにしていた。
 しかし、実際には、怖かったのだろう。
 その恐怖を悟られるのも、怖かったのだろう。
 アンクウはいつも嗤っている。ハイドの薄っぺらい心の壁など容易く破り、認めたくない恐怖を嘲笑っている。
「そこにいるってのか? あの連中、その……『死者の牙』って店に」
「そうだよ」
 アンスルは無表情で即答した。
 彼は人形のような無表情だ。……クロカマキリにも、こういう男がいた。色が白く、無表情で、人形のように整った容姿の男が。彼も、いなくなった。しかし彼は、消えたのではない。死んだのだ。ハイドはその男とはほとんど接点がなかったが、風の噂で死んだと聞いて、少しだけ驚いたのを覚えている。腕利きが死んだのだ。いったいどれほど激しい戦いだったというのか。
 思えば、クロカマキリたちの崩壊は、彼の死から始まったような気がしないでもない。いや、もう少し前だったか。ほとんど部外者だったハイドには、わからないことだらけだ。あれよあれよという間に、クロカマキリは減っていったのだ。
「僕にはエイワズ少佐というパートナーがいる」
 アンスルは、ハイドの回想が終わるのを知っていたかのようなタイミングで、話を続けた。
「エイワズは『死者の牙』に警告に向かったんだれど、帰還予定時刻を過ぎても戻らなかった。現在、連絡もつかない状態なんだ」
 ふん、と思わずハイドは笑ってしまった。
「警告?」
 ハイドにとっては十八番のひとつだ。
「そう。『死者の牙』は、多くの世界にとっての脅威となる可能性を持ちつつある」
「でもよ、警告しに行って殺されちゃお笑いだな」
「殺されてはいない」
 ハイドの嫌味を、アンスル少佐は無表情で否定した。
「我々は死なない」
「不死身かよ」
「そうだよ」
 アンスルはにこりともせずに、また即答した。ハイドは呆気に取られるしかなかった。
「正確に言えば、我々は『世界の意思』そのものなんだ。生物ではない。今はこうして、きみと話しやすい姿になっているというだけ。本来の姿は見せられない。僕らの本体が持つ情報量の多さに、大半の人間の脳と精神は耐えられない。……理解してもらえただろうか」
 アンスルが、ほんの少しだけ首を傾げた。
「……悪ィな、俺ァバカなんだ。でも、死なねェってのはわかったよ」
「根本的な誤解は解けたと判断する。話を続けてもいい?」
「ああ」
 なんだか殴りたくなってきたが、ハイドはこらえた。
 しかし、不思議なものだ。
 この男の前では、妙に、素直になれる。そして彼の声の聞き取りやすさには、奇妙な好感を持てた。まるでNHKのニュースキャスターの声だ。頭の中にすっと入ってきて、情報が染み込んでくる。
「『死者の牙』からエイワズを奪還したい。きみの力があれば解決するかもしれないと、アンクウは言った。相応のお礼はする。協力してもらえるだろうか?」
 また、アンスルはわずかに首を傾げた。
 ようやく、ハイドにはわかった。
 この男は、人間に見えるけれど、人間ではない。人間として、人間に接することに慣れていない。そもそも、言葉をあまり知らないのかもしれない。だから、見た目と口調が合わないのだ。
「なんで俺なんだよ」
「僕もすべての理由を理解できない。ただ、アンクウは、きみがアルカンシェルとヨウ・ハをよく知っているから、と言った」
「……もっと知ってるヤツがいるだろうが、アンクウ」
 店の隅に突っ立っているアンクウを、ハイドはぎろりと睨みつけた。アンクウはこまったように微笑んで、肩をすくめてみせた。
「ハガネじゃだめなんだ。ミクニはもっと無理」
 ハガネ。
 それが、現在、唯一のクロカマキリ。
 ハイドよりも、よほど、アルカンシェルとヨウ・ハのふたりを知っている。
 そしてミクニは、ハガネの娘だ。
「ハガネじゃだめ」な理由はわからないが、アンクウがそう断言するということは、とにかくだめなのだろう。
「だから、もう、きみくらいしかいないんだ。ふたりのこと、今でもはっきり思い出せるのは。――きみは『ドアを開けて、閉める』だけでいい。ふたりのことを思い浮かべながらね。ただそれだけの仕事。アンスル少佐にも、こっちはそれくらいしかできないって伝えてあるから」
 アンクウが、ハイドに追い打ちをかけた。
 ハイドはため息をつく。
 ドアを開けて閉めるだけ? それだけで終わるはずがない。そんないやな予感しかしない。
「引き受けてくれるんだね。ありがとう」
 無表情でそう言ったアンスルを、ハイドはすかさず睨みつけた。
「まだなんにも言ってねェだろうが!」
「人間はやむを得ず了承する際、高確率でため息をつく傾向がある。きみの場合は適用されない法則だった?」
「難しいこと言うんじゃねェ。俺は、その……、バカだ」
「うん。きみの知能指数が、平均的な40代男性よりも劣ることは把握している」
「――ブッ殺すぞ!!」
 カッとなって反射的に怒鳴ってから、ハイドは気づいた。
 こいつは『殺せない』んだった。
「ごめん」
 アンスル少佐は、また、簡潔に謝った。


 アルカンシェル。ヨウ・ハ。常に行動を共にしていたふたり。彼らは、実質的に、クロカマキリのリーダーだった。特にアルカンシェルは、まるでここを自宅にしているようだった。店の奥の椅子に座り、寝ているところを、ハイドは何度も見た。
 そのふたりが、今は、いない。
 いなくなったふたりをはっきりと記憶にとどめているのは、自分だけ。
 それが、ハイドを、ぞくりとさせた。
 人が本当に死ぬのは、人に忘れられたとき。そんな台詞を、何かの漫画で読んだ気がする。どこで読んだか、いつ読んだか、何の漫画だったか。ハイドは、忘れてしまった。
 アンスル少佐を伴ってドアを開けようとしたとき、アンクウに呼び止められた。
「ハイド」
「?」
「向こうに行ったら、ドアをいったん閉めてほしいんだ。……それと。無理はしなくていいよ」
 アンクウがそんなことを言うのは初めてだ。
 アンクウの笑みがほとんど消えかけているのを見たのも、初めてだった。

 ドアを開けた瞬間、ごうっ、といちど強い風が吹いた。
 吸い込まれそうな。いや、押し出されそうな。
 拒絶と抱擁。矛盾した風だ。
 酒と、木の匂い。
 死者の国と死者の牙がつながったのは一瞬だった。ハイドは、言われたとおり、いったんドアを閉めた。

 ドアを開けてその店に入っても、音らしい音はない。
 バーにふさわしい音楽も、ドアが閉まる音さえ聞こえない。
 カウンターの中にいるのは、黒いシャツに、黒いロングのソムリエエプロンを身につけた、一見すると陰気な印象のバーテンダーだ。長く黒い前髪が、ほとんど目を覆い隠している。アルカンシェルだった。
 カウンターの端の席には、いつも、常に、同じ青年が座っている。黒いコートを着た、短髪の、アジア系の青年だった。ヨウ・ハだ。
 ……だが、えも言われぬ違和感に、ハイドは眉をひそめる。
 ちがう。アルカンシェルとヨウ・ハが、別人のように思えたのだ。
「おっ。久しぶり、ヤッさん」
 しかし、ヨウ・ハは、以前と同じ態度で、ハイドに挨拶をする。髪型が少し変わっていた。彼は、どういうつもりか、以前は前髪をふた房だけ長く伸ばしていたのだが、それを切っていた。大きなちがいと言えばそれだけで、人を食ったような笑顔は変わらない。
 だが……、ちがう。
 アルカンシェルのほうは、服装が大きく変わっていたが、髪の長さも体格も変わらない。
 だが……、やはり、ちがう。ヨウ・ハよりも、そのちがいは大きく感じられる。
 ハイドの背後から、するっ、とアンスル少佐が前に出た。
「エイワズは?」
「……まるで双子だな」
 アルカンシェルがぶっきらぼうに言い放ち、磨いていたグラスを置いた。
「おまえと瓜二つのやつなら、奥の部屋だ」
 彼は黒い手袋をはめた手で、奥のドアを指した。アンスル少佐はつかつかと、まっすぐにドアに向かった。
 その腕を、ヨウ・ハがつかんだ。
「ずっとここにいてもいいかも、みたいなこと言ってたぞ」
「そんなはずはない」
 アンスルがぴしゃりと否定した。
 ハイドは、彼の無表情に、初めてわずかな感情が宿るのを見た気がした。
 ヨウ・ハが微笑む。その微笑みが、にいい、と大きくなっていく。
「この店を『死』の未来そのものとして〈アーカイヴ〉に組み込んだほうがいいかもしれない、とかなんとか」
「嘘だ」
「おれとアレクも、それもひとつの方法かなあ、なんて思ったんだ。どうせみんなさ、」

「滅ぼすんだし」

 こいつは変わった。
 変わってしまった。
 よくないものになった。
 ハイドの野生のカンが働いた。
 アンスルの正体はよくわからない。わからないままでいい。わかってはいけない気がするし、どうせ馬鹿な自分には説明されてもわからない。
 だがひとつわかったのは、理解できたのは、あの奥の扉を、開けるべきだということだ。
 ハイドはそう広くない店を走り抜けた。ドアはすぐそこだ。
「走るな、騒々しい」
 アルカンシェルがうんざりした声でつぶやく。
 店が――、一瞬で、広くなった。ドアはその一瞬で、何十メートルも遠ざかった。ハイドは悪態をついたが、足を止めなかった。
『無理はしなくていいよ』
 ついさっきのアンクウの言葉が頭をよぎる。だが、ただドアを開けるために走っているだけだ。無理などしていない。
「俺は走るなと言った」
 アルカンシェルからは遠く離れたはずが、その声はすぐそばから聞こえた。ハイドは気づいたら激しく転倒していた。いつのまにか目の前に椅子とテーブルがあったのだ。ハイドの巨体にぶつかったせいで、椅子が一脚ばらばらに壊れた。
「エイワズ!!」
 アンスル少佐が大声を上げる。見れば彼は、ヨウ・ハに腕をつかまれたままだ。圧倒的な体格差だというのに、振りほどけないらしい。
「エイワズ、応答しろ!!」
 その白い顔には、今やはっきり、表情があった。
 ああ、あの顔。ハイドは立ち上がりながら考える。あの顔は、自分も何度もしたことがある。仲間が心配で心配でたまらないとき。仲間が危険におびやかされているのに、どうしようもないときに。
「エイワズ!! 貴様の考えが変わったとしても! まずは報告する義務がある! エイワズ! 応答しろ!!」
 ハイドはその叫びと、表情に、突き動かされた。
 あの顔。あの声。
 力になってやりたい。
 力になれる。
(信じろ)
 ハイドは椅子とテーブルを跳び越えた。
 黒いコートには、力がある。
(信じろ、俺は)
 信じたことを、現実にする力が。
(俺は、ドアを、開ける!)
 アルカンシェルの舌打ちが聞こえた。
 ドアはすぐそばにあった。店は広くなってなどいない。最初から何も変わっていない。ハイドは信じて、ドアを、開けた。
『こちらは、エイワズ少佐』
 金色の中に、文字と色彩と図形。
 光の奔流が、戸口に立ったハイドを吹き飛ばした。
 声ではない言葉と意識をすぐそばに感じる。
 蜂の羽音に似た音が、ハイドの頭の中で響く。
『アンスル、確かに貴様の言うとおりだ。帰還し、報告する』
 呆けている暇などない。理解しようとする時間ももどかしい。ハイドは今度は逆方向に走った。身体のあちこちが痛いような気もしたが、気のせいだ。
 今は走らなければ。いったん閉めた、店の出入り口のドアに向かって。極彩色の光を背負いながら。
「ヤッさん」
 ヨウ・ハはハイドを見て、笑みを浮かべたまま、ぱっとアンスルの腕から手を離した。
「おれたちのこと、忘れないでくれよ」
「帰れたらの話だが」
 アルカンシェルが口を挟む。ヨウ・ハは、呆れたような笑みを店主に向けた。
「帰らせてやれよ。そのほうがいいだろ」
 ハイドの横で、アンスルと光がぶつかった。
 光は、黒い、大柄な、軍人になった。アンスル少佐とまったく見分けがつかない容姿だった。しかし、その『エイワズ少佐』のほうは、ぐったりしていた。アンスルが彼を支える。その顔に、安堵の色が浮かぶ。
「おめェら、変わっちまったな」
 ハイドはすばやくドアノブに手をかけ、振り返り、静かに言った。
 ヨウ・ハの顔から、笑みが消えかけた。
 ハイドの決意を察したのかもしれなかった。
 帰る。
 ここでの出来事を過去のものにして。
 この男たちが忘れるなというのなら――
 忘れたほうがいい。そんな気がする。彼らは、とてつもないものを敵に回している。まわりじゅうを敵だらけにしている。それを望んでいる。彼らの敵の中には、自分も、含まれている。ハイドはそれを理解できた。いくらバカだと思っていても、本能が、教えてくれる。
 死者の牙は、敵になってしまった。
 ハイドは死者の国を思い浮かべた。帰らなければならない。アンクウと、ごちゃごちゃとしたよくわからない店内を思い浮かべる。自分が生きている世界のすぐそばにある、オカルト用品店を。
『帰れたらの話だが』
 信じて、ドアを開けた。
 だが。

 開けたドアは、漆黒の空間につながっていた。

 ハイドは獣じみた咆哮を上げたが、どうにもならなかった。星が見える。まさか宇宙か。吸い込まれるような風にさらわれて、ハイドの身体は漆黒の中に投げ出された。アンスルとエイワズもまた、ハイドの視界の片隅で、暗闇の中に吸い込まれるのが見えた。
 彼らは、帰らせてくれないのかもしれない。
 死者の国のことだけを考えてドアを開けたはずだが、ふと、ハイドの脳裏を、アルカンシェルの言葉がかすめたのだ。『帰れたらの話だが』。何気なく放たれたその言葉に、とほうもない力があったようだ。ハイドの信念を揺るがす、『帰れないかもしれない』という、不安を誘う力が。
 ――ああ……、帰らなけりゃ……。
 そう信じるだけでは不足だったか。
 さすがのハイドも、宇宙には空気がないことくらい知っている。しかし、息はできた。自分をいずこかへ吹き飛ばし続ける豪風の中、もがくこともできる。ここは宇宙ではない。宇宙であってたまるか。
 信じろ、自分は、帰れると。
 でも、どうしても、願ってしまうのだ。願うだけでは、何も変わらないのに。

 帰りたい。

『協力、ありがとう。相応のお礼はすると、僕はきみに約束したね』
 黒づくめのアンスルとエイワズの姿は見えなくなっていた。しかし、ハイドの頭の中に、アンスルの心地いい声が差し込まれる。
『〈アーカイヴ〉! 干渉許可を!』
 間、0.1秒。
『許可が下りた! きみをもとの世界に戻す。軌道に干渉する。あらゆる希望的要素を集束させて、帰還の可能性を上げる。フックはきみだ。ええと――なんて言ったら理解してもらえるだろうか――』
 逡巡、0.5秒。
『ハイド!』

『信じろ!!』

 帰る。

「兄貴ッ!」
 ハイドが信じて伸ばした手を、がしっ、とつかむ手があった。
 ハイドは目を見開いた。
 そんな馬鹿な。
「モーリ、」
 信じられない。
 いや、信じろ。これが現実だ。
 一度は否定した信念を、もう一度信じ直したときだ。がしっ、とすかさずもうひとつの腕がハイドの腕をつかんだ。そして――引っ張り上げてくれた。


 ハイドはそのまま、死者の国の雑多な売り物の中に突っ込んだ。いろいろと壊れる音がしたが、幸い、ハイドの身体は非常に頑丈だった。うめきながら立ち上がる。アンクウが「あーあーあー」とつぶやきながら、苦笑いで片づけ始めた。
 ハイドと同時に、立ち上がった男がいた。
 ズレた軍帽をかぶり直したその男は、アンスルではない。ハガネだ。……この店に、たったひとり残った、クロカマキリ。
「……大変だったらしいな。なにがなんだか、よくわからんが」
 ハガネはハイドと目を合わせず、ぼそぼそ言った。
「ああ。助かったぜ」
 素直に礼を言ってから、ハイドは店内を見回した。
 店内にいるのは、自分と、アンクウと、ハガネだけだ。アンスルはいないし、エイワズの姿もない。3人だけだ。
「なあ。……もうひとり、いなかったか?」
「ん? いや」
「モーリってヤツなんだけどよ」
 ハイドがその名前を口にすると、ハガネはわずかに目を見張った。
「知ってるのか、あんた。あいつを」
「……知ってるも何も、俺ンとこにいたアホだ。ただ……、その……だいぶ前に、死んじまったんだけどよ。今、俺を助けてくれた。おめェといっしょにな」
 ハガネが小さなため息をつく。
「ここにいたのは、俺だけだ。ドアを開けたんだ……、あんたの声がして。そしたら、あんたが、手を伸ばしてた。……でも、あいつも、助けたのかもな。もしかしたら」
「どういう意味だ? ったく、今日はワケわかんねェことばっかり起きやがる」
「あんたの知ってるモーリじゃないモーリを、俺は、よく知ってる。別の次元のモーリだ」
 ハイドは、ハガネの鋼色の目を真っ向から見つめた。相手には、睨みつけたように見えたかもしれない。ハガネはわずかにうつむいた。軍帽のつばの陰に、彼の目は隠れてしまった。
「……そうか。あいつが生きてる次元もあんのか」
「ああ。べつのあんたの、世話になってるみたいだ。そこじゃ、俺は死んでる、らしい」
「なんか、そりゃア、ヤな話だな」
「ああ」
「フン。俺がくたばってる次元は多そうだぜ」
 桐生灰人には、津嘉山猛吏という舎弟がいた。だいぶ前につまらないケンカをして、刺されて、あっけなく死んでしまった。ハイドは物覚えが悪いが、不思議と、『家族』のことはすぐに覚えられるし、けっして忘れることがない。
 猛吏は死んだ。しかし、ついさっき、確かに、ハガネといっしょに助けてくれた。
 奇妙な仕事は終わった。ハイドがやったことは、奇しくも、アンクウが助言したとおりのことだ。ドアを開けて、閉めただけ。できたことも、やったことも、ただそれだけ。なのに、なかなか大変だった。
「アンクウ。あいつらはちゃんと帰れたのかよ?」
「と、思うよ。まあ、帰れてなかったら大変だね。次元のひとつやふたつは消えてなくなる」
「……俺ァそんなカミサマみてェなヤツを手伝ったってのか?」
「そうだよ、ハイド。おつかれさま」
 片づけの手を休め、アンクウはハイドを見て、大きく笑った。
「きみ、そろそろクロカマキリになってみない?」
 ハイドは苦い顔で、かぶりを振った。
 ハガネはアンクウの片づけを手伝おうともしない。銀縁の黒手帳を開き、すぐにしまった。
「どこに行ってたんだ?」
 ハガネがそうして、ハイドにものを尋ねるのは、珍しいことだった。ハイドはしかし、肩をすくめて、こう答えた。
「忘れちまったよ。俺ァ、バカだから」




「エイワズ。〈死者の牙〉を〈アーカイヴ〉に組み込もうとしたのは、本当?」
「いや。しかし、本当かもしれない」
 いつの時代の、どこの国ともつかない、のどかな庭園の中で、2匹の蜂が瓶入りのネクターを飲んでいる。10本の腕で、瓶を支えながらホバリングしていた。
「……可能性は考えた。奴らの目的を知ったときに。次の瞬間には閉じ込められていた」
「彼らの目的は?」
「すべての世界の人類を滅ぼし、人類が認識する『死』の概念を消滅させ、自らの存在をも抹消することだ」
 エイワズは遠くを見ながら、ちびりとネクターを飲んだ。それを聞いたアンスルの翅の中で、情報と思考が、赤色の文字列となってスクロールし、明滅した。
「彼らは危険だ」
「しかしアルゴリズムに組み込み、うまく利用すれば、効率的に世界の軌道を修正できるかもしれない」
「〈アーカイヴ〉が指定する世界の人類を、効率的に滅ぼせる?」
「そうだ」
「〈アーカイヴ〉に報告は?」
「した」
「……じゃあ、〈アーカイヴ〉の判断待ちだね」
「アンスル。貴様は〈死者の牙〉が〈アーカイヴ〉の一部になることに反対か」
 何も答えないアンスルの目と翅の中では、赤とペールグリーンの光がせめぎ合っている。葛藤し、逡巡している証拠だった。言葉を交わさずとも、エイワズには伝わっている。
「そうかな。そうかも」
「貴様は人類を愛しているようだ」
「わからないんだ」
「いや。答えを認めたくないだけだ」
「ずいぶん突っかかるね、エイワズ」
「突っかかってなどいない。俺は貴様を非難するつもりはない。俺も愛は理解できる」
 エイワズの複眼に、ローズグレイの光が宿る。
「人類への愛を判断要素とするソースコードがあってもいいだろう」
「でも、それを基準にはできない」
「無論だ。だが、現段階では貴様の存在が許されている。ならば、〈アーカイヴ〉は貴様を必要としている。俺はそう判断している」
「エイワズ。でも僕は……、そうだ。苦しんでいるんだ。人類は……、すてきなものだ、たしかに、愛しているよ。でも……、いいのかな、本当に……」
 アンスルの翅と目の中で、ひとりの人間の男の情報が渦を巻いた。
 シリル・スワンプ。シリル・オーシャン。シリル・リバー。シリル・レイク。存在しうるかぎりの、シリルという男。それぞれ風貌と生涯はちがっても、すべて、同一人物だ。エイワズはアンスルの苦悩そのものを、しばらく、じっと見つめていた。
 アンスル少佐が人類そのものを愛するきっかけになってしまったのは、その、一見うだつの上がらない男に他ならなかった。
 そのうち、エイワズの翅の中にも、ひとりの人間の女の情報が浮かび上がった。
 カミュータ。たいていどこの世界でも、同じ芸名を使い、美しい歌を唄っている。
 いつもこうだ。アンスルの苦悩と共鳴してしまうと、彼女のことを思い出して、ふたりして短時間フリーズしてしまう。エイワズはハングアップしてしまう前に、彼女のデータを急いで自分の中の奥の階層にしまいこむと、アンスルに近づいた。
「アンスル」
「!」
 我に返ったように、アンスルの表面から、シリルのデータが消えた。
「な、なに? エイワズ。距離が近い」
「少なくとも、俺は貴様の味方だ。借りもある。貴様を理解し、護ってやれる。貴様のためならば、ある程度〈アーカイヴ〉を敵に回してもいい。ある程度だが」
「……ありがとう。嬉しいよ」
 蜂たちの複眼の光が、揃って、二度やわらかにまたたいた。
 それは彼らにとっての『微笑』であった。
 やがて2匹の蜂の単眼が、信号音とともに、赤から青に変わった。2匹はネクターの瓶を同時に傾け、ひと息に飲み干した。
「任務だ」
「そのようだ」
「行こう」
「了解」
 2匹の蜂の翅は唸りを上げた。
 2匹の姿は、#3-05jжcv8xΘv=665の形態を取った。人類には視認できず、また、理解も不可能な姿だ。
 次に神が往く世界には、人類がいないということだった。
 神々は、消え失せた。
 神を失っても、のどかな庭園は、のどかなままで、そこに在り続けていた。



〈了〉
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