一 大学がある風景(3)
ザパンが死んだのだ。
しかも、殺された。
黒色処理官には現行犯逮捕権こそあるが、殺人を始めとした犯罪の捜査は管轄外である。夢の中でも犯罪は起きた。町の陰では窃盗や暴行などの刑事事件が起きていたし、まれに人も殺される。しかし、乳白色の制服を着た警官たちは、現場に踏み込もうとしていない。
ザパンの妻キキョウの話によれば、ザパンを殺したのは〈黒いもの〉である可能性が高いのだという。警察は黒色処理官待ちだった。
キキョウは、一階のキッチンで夕食の用意をしていた。オーブンから焼き上がったプラムケーキを取り出したとき、書斎からザパンの呻き声と、物音を聞いたという。ザパンは帰宅してからずっと、二階の書斎で書き物をしていた。
キキョウは何ごとかと書斎に向かった。書斎の扉に、鍵はかかっていなかった。キキョウは扉を開け、床に倒れたザパンを見た。ザパンはその顔をキキョウに――扉に向けていた。どんよりと開かれた瞳には光がなかったし、ザパンはぴくりとも動いていなかった。キキョウはそこで、ザパンが死んだのだと思った。
ザパンのそばには、緑がかった黒いマントをまとった人影が立っていた。フードをすっぽりと頭からかぶっていて、顔立ちはまったくうかがい知れなかった。
〈黒いもの〉!
キキョウは悲鳴を上げ、飛ぶような勢いで逃げだした――。
ラ・バックがここに来たのは通報によるものではなかったが、彼はその話を聞くなり、館の中に踏みこんでいた。応援を待つほどの余裕はなかった。
友人が死んだのだから。
しかし、中に足を踏み入れた途端、
――ちがう。
ラ・バックは確信した。〈黒いもの〉の仕業ではない。
一階には、温かな香りが漂っていた。バターとサフランで炒められた米、そして焼きたてのプラムケーキ。素晴らしい匂いは、今、どこか場違いだった。
書斎で、ザパンと何時間も語り合ったこと、キキョウがわざわざ淹れたての紅茶と甘い菓子を運んできてくれたことを、ラ・バックは鮮明に覚えている。ザパンは書き物をしながら、色とりどりのジェリービーンズをつまむ癖があったはずだ。
今も、オークでできた頑丈で立派な机の上に、あの鮮やかなガラスの器はあるだろうかと、ラ・バックは思った。扉が開け放たれたままの書斎が近づく。
ガラスの器。ジェリービーンズが盛られた、ザパンのもうひとつの顔。ラ・バックと同じ、甘党の一面。学生たちは知らないだろう。いつも気難しい表情のザパンが、甘いものを好んでいることなど。
念のため、右袖のボタンを外し、腕輪に手をかけながら、ラ・バックは腰を沈めて書斎の扉にしのび寄る。物音はしない。気配もない。
ラ・バックは祈りながら書斎の中に飛びこんだ。
ジェリービーンズは散らばっている。
ザパンのうつろな視線が、ラ・バックを射抜いた。
「…………」
ラ・バックは言葉を失った。
淀んだ色の空から、風が降りてきている。書斎の中にしのびこんでいる。窓が開いていた。桔梗色のカーテンが、音もなく窓の向こうでひらめく。
書斎の壁は本棚で埋まっている。隠れられる場所といえば、オークの机の下ぐらいだろうか。ラ・バックは慎重に机に近づいた。やはり、人影はなかった。
ザパンの命を奪った黒衣の人物は、凶行におよんだあと、すぐに窓から逃げたのかもしれない。ここは二階だが、窓の下は芝生だ。飛び降りても死ぬことはありえない。
右袖のボタンを留めながら、ラ・バックはザパンのそばに膝をついた。首に手を当てる。
冷たい。
動いていない。
死んでいる。
彼は、死んだ。
「約束してくれたのに」
ラ・バックは呟いた。
「キキョウさんを幸せにすると、あなたは――」
――どうして殺されたんだ。誰が殺した。
心の中で渦巻く疑問とはまったく裏腹な言葉が、ラ・バックの口をついて出てくる。胸を焦がす盲目の怒りは、誰に向けられたものなのか。キキョウを未亡人にしたザパンか。友人ザパンを殺めた者か。
ラ・バックは動揺していた。
ザパンの死因に見当をつけるのも忘れていた。ただ、外傷がないことだけは頭に入っている。ここには死があるだけで、血は一滴も流れていない。
ラ・バックはザパンの目を覗きこんだ。恐ろしいほどの漆黒がそこにある。昼間に見た黒い瞳とは、まるで 別のもののようだった。乾いた眼球の上に光はなく、絶望的な暗闇が、ザパンの開かれた目の中で渦巻いている。
はっ、とラ・バックは息を呑んだ。反射的に、手が右袖にかかる。
ザパンが動く。
〈黒いもの〉!
ばちゅん、とザパンの両目が弾け飛んだ。飛沫はどこまでも黒かった。ラ・バックはザパンのそばに膝をついたままで、黒い飛沫を顔中に浴びていた。
ザパンが黒い涙を流しているようにも見えた――。涙はタールのように粘つき、音を立てずに、とめどなくザパンの眼窩から流れ落ちていく。まるで涙は、意志を持った流れであるようだった。黒い流れはじわじわと臙脂色のカーペットを侵し、ザパンの全身を覆う。
黒いザパンが、のろのろと身体を起こした。
いや、死体は倒れたままだ。黒いものに覆われているが、服の端や白い髪がわずかに、黒いタールからはみ出している。黒いものがゆっくりゆっくりと立ち上がる、その様は――まるで、黒色に染まったザパンの魂が、肉体から抜け出そうとしているかに見えた。
ラ・バックは叫びかけた。親友が黒いものに汚されていく。
しかしラ・バックは叫ばなかった。黒い飛沫をゆっくりと拭いながら、黒いものを見据えていた。呆然としていたのかもしれない。
〈黒いもの〉は、ザパンの影法師と化していた。黒一色に塗りつぶしたザパン。かれはぬらぬらと光沢を放ちながら、ねっとりと崩れては再生し、またねっとりと崩れる、そんな堂々めぐりをつづけていた。
ラ・バックは後ずさりをする。それでも、手首からは真鍮の腕輪が落ちた。
『ら、ああああああああ』
黒いザパンが、大きく口を開けた。顎はどこまでも、どこまでも開いた。下顎はカーペットを目指して、落ちていく。
『ば、ああああああああ』
すぐにあらわれた新たな顎が開き、先に落ちていく下顎を追って落ちていく。
『わだしわ、花あああ。わだしわ、夢えええ。わだしわ、生ぎでいどぅううう。なでならあああ、わだしわあああ、空おおお、花どおおお、いっどにいいい、みあげでえええ、いどぅがらあああ』
わたしは花。
わたしは夢。
わたしは生きている。
なぜならわたしは空を、
花といっしょに
見上げているから。
「やめろ」
ラ・バックはたまらず吐き捨てた。
『らあああ、ばあああ。く。わだしわあああ、ああああああ……』
「やめろ。博士を騙るな」
黒いザパンは両手をラ・バックに向け、だらりと力なく伸ばしていた。腕からは音もなく、相変わらず黒いタールのような瘴気と液体が垂れている。指は五本だったが、六本にも八本にも、三本にもなった。
「やめろ……、どうして……、こんなことに……!」
『わだしわ、ああああああ……』
わたしは花。わたしは夢。
それは間違いなく、ザパンがキキョウを妻に迎えたばかりの頃に、町内新聞主催の散文詩コンクールに出した詩だった。短い詩だ。ささやかな詩でもある。だが、ラ・バックは忘れない。この詩を忘れない。コンクールでは佳作をとったこの詩。
この詩の中に、ザパンの幸福が詰まっていた。
かなわぬラ・バックの幸福が絡みついていた。
『花ああああああああああああ、あ、ぇ』
ラ・バックの右腕が、第二の顎そのものの触手が、黒のザパンの喉に喰らいついた。ラ・バックがこれまでに喰ってきた黒いものと、何も変わらない感触だった。
ザパンの首はちぎれ、詩を朗読しながら溶けていく。ただの流動する黒に戻っていく。
『ぉるるるる。るるるるぉぉぉぉぉぉ……』
腹がいっぱいだ、そんなまぼろしめいた感覚がラ・バックを襲う。。胸につかえて飲み下せない。ラ・バックは唇を噛みしめているのが精一杯だった。喰いたくはない。だが野放しにはできない。
ラ・バックの腕はさまざまな思惑とは裏腹に、ただひたすらがつがつ喰った。ザパンを喰った、黒いザパンを。
これが、悪い夢であればと――彼は、思った。
黒いものがラ・バックの腹の中にすべて消えたときには、ザパンの死体もなくなっていた。黒いものが侵食しつくしてしまったのだ。カーペットも一部が消えて、床板がむき出しになった。
「博士、……博士、どうして……」
わたしは生きている。なぜならわたしは空を、花といっしょに見上げているから。
黒いものが諳んじた詩は、ザパンの脳髄の中にあったものだ。黒いものが喰ってしまった。ザパンの知識と記憶を取り込んだのだ。
よくあることだ――ラ・バックは慣れているはずだった。黒いものが、喰ったものの姿を真似たり、記憶を垂れ流すことなど、珍しくもない。黒いものとは、そういうものなのだ。
しかしラ・バックは、もう、堪えられなかった。
だが限界を超えたはずなのに、彼の目から涙がこぼれ落ちることはなかった。
不思議なものだ。
警官たちと入れ違いに、ラ・バックはザパンの書斎を出る。
一階へ下りて、外へと続く扉を開ける。
ポーチに座りこむ、キキョウの後ろ姿が、ラ・バックの目を焼いた。
キキョウは濃い桔梗色のヴェールをすっぽりとかぶり、自分を抱きしめるように腕を組んで、小刻みに震えている。ポーチに座りこんだままで、動こうとしない。その目は、虚空を凝視していた。
ラ・バックが歩み寄っても、彼女は顔を上げなかったが、青褪めた唇を開いた。
「主人は……、主人の遺体は……、かかか、解剖、されるのかしら」
「いいえ」
「ラ・バッ、ラ・バックさん」
「はい」
「こ、こ、こここれを……」
彼女は震える手で、ラ・バックに鍵を渡してきた。ガラス製の、洒落た意匠によるものだ。ほんの小さな鍵で、部屋や家の鍵とは思えなかった。
「わ、わたくしの、鏡台に、鏡の宝石箱が、あります」
「これがその鍵なのですか」
「そうです――中に、どうか……、どうか、それを。主人から……預かったのです。もし、も、もし、自分に何かあったら、ラ・バックさんに渡すようにと――」
「わかりました。ありがとうございます。持って帰らせていただきます」
「ラ・バックさん」
「はい」
「ラ・バックさん……」
焦点の定まらない目で、キキョウはただのうわごとを――ラ・バックの名前を、呼びつづけた。ラ・バックは、呼ばれるたび、稲妻めいた衝撃に胸と脳髄を貫かれた。彼の意識は痺れて、何もかもわからなくなってしまいそうだった。
気づけばラ・バックは、膝をつき、キキョウを抱きしめていた。キキョウは震えながらラ・バックの背にしがみついてきた。その指は、真っ白になるほどに力をこめて、ラ・バックの黒い制服を掴んでいた。
「ラ・バックさん」
しかし彼女の目は、まばたきもせずに虚空を見つめているだけだった。
キキョウは駆けつけた町医者に任せ、ラ・バックはザパンの屋敷の中に戻った。プラムケムーキの匂いは冷め始めていた。
警官たちはひとまず、ザパンの書斎に焦点を絞って捜査を始めている。ザパンが〈黒いもの〉に殺されたのか、それとも夢の歪みなどではない、れっきとした『人』に殺されたのか――そこから調べているはずだ。もう、重要な手がかりとなる死体が消えているのだが。
ラ・バックは夫妻の寝室に入った。警官の姿はない。
香水や化粧品が並ぶ鏡台には、確かに、ミラーボックスがあった。
磨き上げられた鏡と箱に、ラ・バックの顔が映りこむ。青褪めている。絶望している。そんな、暗い顔だ。
ガラスの鍵を鍵穴に挿しこみ、慎重に回す。
小さな音を立てて蓋が開いた。正方形の薄い蝋板を数枚束ねたものが、中に入っていた。それ以外には何も入っていない。ラ・バックは蝋板を取り出し、懐にしまった。宝石箱の蓋を閉め、寝室を出る。
警官たちは、ラ・バックが現場を去る姿を、見ていなかった。
彼は殺風景な自宅に戻った。大学町の中心部、大学の鐘の音がよく聞こえる、石造りの古いアパートメント――そこが、ラ・バックとミラ・メルの住居だ。二階建てで、そう広くはない。
ラ・バックがこのアパートの二階に住み着いた当初は、大学関係者が一階の部屋で暮らしていた。しかし、ラ・バックがアッバードの民であることを知ると、その同居人は逃げるようにしてアパートを去った。
今では、ミラ・メルが一階、ラ・バックが二階の部屋の家賃を支払っている。ふたりは仕事が趣味のようなもので、黒色処理官の給料は安くなかった。アパートメント一軒ぶんの家賃を支払っても、ふたりの生活に支障はない。
空の色は相変わらずの灰。いや、よく見れば、西の空がわずかに桃色を帯びているか。ラ・バックはカーテンを閉め、丸テーブルの前に座った。
巡回中や非番の間に〈黒いもの〉を処理したときは、自分で報告書を作らなくてはならない。だがラ・バックは、その仕事を後回しにした。懐に入れて持ち帰ったザパンの忘れ形見を、テーブルに広げる。
桜色の蝋板は全部で九枚。その裏には、熱した石のペンでもって記された、ザパンからのメッセージがあった。文字の部分だけが溶け、蝋板には這いうねる文章が、奇妙な凹みとなって残されている。
ラ・バックは、並べた蝋板の上に群青のインクを垂らし、すぐに布で拭き取った。凹んだ文字にだけインクが残り、ザパンの言葉は精彩を帯びた。死んだ言葉がよみがえったかのような光景だ。
九枚の蝋板は、もともと一枚であったものを切り分けたものらしい。文章の意味が通るように、切られた文字が繋がるように、ラ・バックは蝋板を並べ直した。
笑みが消え、困惑と緊張で、ラ・バックの表情は張りつめていく。
私の生涯の友、ラ・バックへ
これは遺書だ。まさかきみに宛てた遺書をしたためることになるとは、
二〇年前、きみと知り合った頃の私は想像だにしていなかった。
ラ・バック、きみはリム郷の〈たったひとつの帝國〉に
行ったほうがいいかもしれない。いや、行かないほうがいいのか。
きみに任せよう。帝國に行くか行かないかは、きみの自由だ。
だが帝國の中には、きみのような、〈アッバードの民〉の悲しみと命が、
臓物のように詰めこまれているのだ。
きみはよく私との対話で、こんな疑問を口にしていた。
夢人は夢を見るのか、と。
私はその疑問にいつも答えてきた。
我々は夢を見ない、と。
だが、今ならわかる気がする。我々夢人は夢を見るのか。
なぜきみは、何度もその疑問を口にしたのか。
皆まで言うまい。私の憶測にすぎない。夢学に憶測を持ちこむのは禁物だ。
ラ・バック、帝國には、きみのその疑問の答えも潜んでいるはずだ。
私の死、もしくは失踪の理由も見つかるだろう。
最後になるが、ラ・バック、きみは私の良き親友だった。
きみの強さ、思慮深さ、叡智にはいつも驚かされていた。
私はきみがうらやましかったし、きみのような親友を持てたことを、
本当に誇りに思っている。
だから何も気にしないでほしいし、できることなら、私を許してほしいと思っている。
ラ・バック。私は知っていた。
ザパンより
ラ・バックは何度も何度も、何度も読み返した。いくら読み返しても読み返し足りなかった。視線で蝋板がすり減り、インクが蒸発してしまうのではないかと思えるほど、彼は読んだ。ザパンの声を聞き、ザパンの言葉を脳と目に焼きつけていた。
だが、やがて彼は蝋板を持ち、マントルピースに向かった。薪に火をつけ、橙と赤紫がくるくると混ざり合う炎が上がると、ラ・バックはザパンの遺書をマントルピースに投げこんだ。
植物性の青いインクは燃え上がり、桜色の蝋板はたちまち溶けていった。暖かな、オレンジ色の光彩につつまれながら、ラ・バックは眼鏡をかけたままの顔を手で覆っていく。
桜色の上の、青い言葉。
ザパンの声。
脳裏を巡るのは、彼の詩。講義。
やわらかな癖を持った白い髪。めったに見せなかった笑顔。
そしてキキョウ、彼の妻。
黒く染まり、崩れてはもとに戻り、流れ落ちてはまた登っていた、彼のなれの果て。
――胸が痛い、なぜだ、胸が痛い。胸も腕も腹もない、このわたしの胸が痛い……。ああ、ミラ・メル。今は帰ってこないでくれ。わたしをひとりにしてほしい。だがひとりにはしないでくれ。わからない、わたしの気持ちが、よくわからない……。
ラ・バックにとどめを刺したのは、毎日聞いているあの鐘の音。
ああ鐘が鳴る。
どろぉ……ん、どろぉ……ん、どろぉ……んんんんんんんん。
いつの間にか、日付が変わって、大講堂での講義の時間になっていたらしい。
ああ鐘が、鳴っている。
ラ・バックはマントルピースの前にひざまずき、何時間も嗚咽を漏らしていた。