四  思い出の果てに(2)




「フレデリカ! フレデリカはいる?」
 パーカッションとトランペットの音を消さない程度の声で、マダム・ジョージは店内に呼びかけた。ここは確かに、〈ポータル〉の何倍も広い店だ。オーク色の沈んだ照明が落ち、質素な木製のテーブルと椅子が並んでいる。カウンターの奥には髭面の太ったマスターが立っていた。客のほとんどはイビトだ。薄暗い店内は、イビトが発する光にも満たされている。
「フレデリカ!」
「ここよ。何だい、ちゃんと聞こえてるったら」
「だったら返事をしてちょうだいよ」
「ふん!」
 どすんどすんと乱暴に床を踏みしだきながら、まるまると太った女が現れた。この女がフレデリカか。可憐な名前とは裏腹に、彼女は恐ろしく醜――そう、個性的だった。分厚い唇からは前歯が飛び出し、目は魚類や両生類のようにぎょろぎょろしている。髪はもじゃもじゃの癖毛だ。鼻は低く、横に広い。そして、頬紅は濃い紫で、アイシャドウはピンクと白だった。
 フレデリカは不機嫌な顔でマダム・ジョージをあしらい、それから、ラ・バックをじろじろと舐めるように見つめた。
「何だい、こいつは。夢喰らいじゃないか」
「黒色処理官さんよ」
「そんなことくらい制服でわかるわよ! こいつが〈ポータル〉を通ってきたのかい?」
「ええ。それで――」
「わたしはラ・バックと申します」
 静かに、ラ・バックはふたりの会話に割って入った。ふたりの女は、静かにラ・バックに目を向けた。フレデリカの金色の瞳は、ラ・バックをすみずみまで見つめ、見透かし、そしてたちどころに値打ちを判断したようだ。彼女の眼差しに、あまり猜疑の色は窺えない。だが、信用しているわけでもない。ただ、悪意を持つ存在ではないことだけを見抜かれた。
「あたしはフレデリカ。まあ、町長みたいなもんさね。あたしがここの女と男を『管理』してる。このマダム・ジョージは『鍵』を管理してるってわけ」
「では、この辺りのことをよくご存知だ」
「まあね。何か訊きたいことでも?」
 フレデリカとマダム・ジョージはそれきり黙った。ラ・バックの、次の言葉を待っているようだ。
「〈黒の不吉な月〉」
 またしても、言葉は彼の唇の間からすべり落ちる。
 マダム・ジョージとフレデリカは、ちかりと視線を合わせた。フレデリカは口を真一文字に結ぶと、大きな鼻で大きなため息をつく。
「……ラ・バック、あんたはその言葉についてどう思うんだい?」
「単なる合言葉以上のものだろうと。しかし、何を意味しているかはわかりません。意味を持っているのかどうかも」
「制服は着ているのに仕事で来たわけじゃない。仕事で来たわけじゃないのにこの通りで楽しもうとしてるわけじゃない。あたしに言わせたら、あんたもその言葉と同じさ。何を考えてるかわからない。そもそも何か考えたりしてるのかどうかもわからない」
 ぢゃっ、と奇妙な音がした。フレデリカが腰に下げていた扇子を広げたのだ。扇子には猫が描かれていた――どの角度から見ても猫に睨まれている錯覚に陥る意匠の、不気味な水彩画だ。
「あんたを信用するには材料が必要だね」
「でも、言葉を知っていて、アナタが夢喰らいである以上、無意味なお手伝いはさせたくないわ。ラ・バック、意味を知りたければワタシについてきて、そこで仕事をしてちょうだい」
「仕事?」
 ラ・バックがわずかに眉根を寄せると、マダム・ジョージとフレデリカは声を上げて笑った。可笑しげな哄笑はすぐにやんだ。
「なに心配してるんだい。別にあんたに客取ってもらおうなんて思ってないよ」
「アナタにしか頼めないことを頼むわ」
「……わかりました」
「ありがとう。じゃ、行きましょう」
 マダム・ジョージは笑み、ラ・バックに視線を絡ませて、酒場を出た。ラ・バックは、出る前に一度店内を振り返った。フレデリカは悠然と扇子で顔をあおぎ、扇子の猫はラ・バックを睨み、真鍮のサックスがいぶし金のソロを奏でていた。
 そしてイビトたちは、夢をみている。琥珀色と磨き上げられたマホガニー、花のような香りに包まれて。
 微動だにしていなかった髭面のマスターが、くい、とラ・バックに顔を向けた。大きく頷いた彼は、また来い、と目で語っていた。





 再びマダム・ジョージに連れられ、ラ・バックは猫ストリートを歩いた。客を待つ男女はラ・バックに視線こそ送るものの、言い寄っては来ない。マダム・ジョージのために道を開けているのだ。
 マダム・ジョージはやがて一軒の娼館へとラ・バックを導いた。門灯に使われているのは、ワイン色のセロファンを貼られたカンテラだったが、中に炎は入っていない。扉も閉ざされ、切り出しの窓の向こうに灯はなかった。マダム・ジョージは銀色のスパンコールのポーチを開けて、中から大振りな鍵を取り出し、扉を開けた。
 中からは、埃の匂いがしてきた。人の気配は微塵も感じられない。
「ここはだいぶ前に畳ませたの。ワタシとフレデリカがね。それから、誰もここには入ってないし、誰も出てきてないわ」
「……もしかして、中に〈黒いもの〉が?」
「ご明察。これが鍵よ」
 マダム・ジョージはポーチの中から、もうひとつ鍵を取り出した。頭はリンゴの透かし彫りだった。
「その部屋にいるわ。そこから動こうとしないの。ひとりの客とひとりのコ娘を食べたけど、ふたりの気持ちを消化しきれなかったらしいわ。両方ともこの世界の人。ここじゃ夢人でもイビトでも夢喰らいでも、誰だってお客になれる。ただ、そのふたりは、商売女とお客の間柄じゃなくなってしまったの。……ふたりとも、いつまでも部屋にいたいと思ってた。だから化物も、ずっと部屋にいるわけ」
「この通りには処理官がいないのですか? ずっと放置するなんて――」
「だって、部屋から出ないんだもの。部屋に入らない限りは安全でしょう? それに、ここの処理官はいつだって誰かに骨抜きにされてるから、頼りにもならないわ。……化物を退治したら、部屋の中にあるものを何かひとつ、持ってきてくれる?」
「証拠というわけですか」
「そうでもないわ。ただ、アナタたちには必要なものになるから」
「……何でもいいのですね?」
「そうよ、何でも。目についたものを」
 マダム・ジョージは微笑んだ。
「ここで待ってるわ」


 マダム・ジョージの言葉には、色々と謎があった。その謎についてあれこれと考えをめぐらせながらも、ラ・バックは女たちの言いなりに動いている。自分のその行動について、疑問がないわけではない。しかし、これが自分の取った行動だ。女たちの言われるがままに動くというのが。
 思えば、はじめからずっと、誰かの言いなりになって動いている。しかし言いなりになるかどうかは。ラ・バックが決めたことだ。抗うこともできたのである。そして、抗ったりもしてきたつもりだった。
「……」
 ラ・バックは困惑した顔で足を止め、じっと足元の絨毯を見つめた。臙脂色の絨毯は、うっすらと埃をかぶっている。
 不意に口の中にチョコレートの味が戻ってきた気がして、ラ・バックは唇を舐めた。〈ポータル〉で飲んだカクテルには、チョコレートリキュールと、あとは何が入っていたのだろうか。
「……」
 集中しなければ。
 これは任務のひとつだ。自分は普段、危険な仕事に就いている――。
 ラ・バックは束の間目を閉じ、開いて、誰もいない虚空を睨みつけた。右腕のホックを外し、リンゴの鍵で開くドアを探した。
 ドアは、二階の奥にあった。錫でできたリンゴのレリーフが掲げられていたのだ。そして、ラ・バックがよく知る〈黒いもの〉の気配とささやきが、その部屋の中から感じられた。ラ・バックはそっと鍵を開け、腕輪に手をかけながらノブを回した。


(行かないで)
(行くものか)


 ダブルベッドに敷かれたシーツと毛布は、しわくちゃにかき乱されている。ここで起きた惨劇のあと、誰もこのベッドを整えることができなかったのだ。しかも、シーツには黒ずんだ汚れがあった。まるでベッドの上で何かが灰になったようでもあり、誰かが大量にこぼした血液が、そのまま乾いて腐ってしまったようでもある。
 窓の枠が、どす黒く変色していた。大きく抉れていて、半ば腐っている。シャンデリアも、まるで煤をかぶっているかのようだ。
 蔦や蔓の柄が織り込まれた臙脂色の絨毯の上で、黒い空気と液体の塊が、ささやきながら小刻みに震えていた。
「すさささささ。すすすすすす。さささささす、すさささささ」
 そうささやきながら、震えているのだ。
 いや、違った。
「すきすきすきすき。きすきすきすきす。すきすきすきすき。きすきすきすきす」
 そうささやきながら、震えているのだった。
 ラ・バックが腕輪を外し、それが床に落ちると、〈黒いもの〉は身体を一八〇度よじって振り向いた。その身体に、ねじれた様子がくっきりと痕跡を残しながら。
 ぐにゃりと伸びた黒いものの手足は、八本。女の四肢と男の四肢。それも漆黒の――。
 女の手と男の手が、黒い怪物の身体を支えてふらりと立った。女と男の腕の長さに差があるために、黒い身体は前後左右に揺れている。
 そして、四本の足はばたばたと虚空でもがいているのだ。身体と足を揺らしながら、黒いものはラ・バックに向かってきた。
 ラ・バックをも喰らおうとするその意思は明らかだが、その歩みは危なっかしく、異様に遅い。本当に、逆立ちしている男女が絡み合いながら前に進もうとしているかに見えた。しかし、滑稽ではない。あまりに異常。不条理だ。ちゃんと足で進めばいいのに、わざわざそれは逆立ちをして歩いている。
 黒いものは、口を開けた。人のものによく似た口の中には、男女ふたりぶんの歯がでたらめに並び、上顎と下顎に一枚ずつの舌があった。
 ふたりは黒いものの中でひとつになっている。ふたりは幸せなのかもしれない、とラ・バックは思った。きっと幸せだから、ここに永遠に留まろうとしている。イビト同様、〈猫ストリート〉を出てしまえば、夢人も自分の現実に戻らなければならない。永遠に猫ストリートの艶めいた夢の中にありたいと願ったふたりが、部屋から出ようとしないのは――理にかなっているのだ。
 誰がそれを責められるだろうか。誰がそれを哀しむだろう。

 ラ・バックの第二の顎は、感情を持たない。ただラ・バックの意思のまま、そのピンクの顎と蒼い牙で、黒いふたりに襲いかかった。

 足の付け根に、ラ・バックの触手は牙を立てた。
「あえええええ、え! ど、どこにも行かないわ! ああ、一緒だとも! どこまでも一緒だ! お、おおおおおあ! あ、あたしたちは永遠なのお、ここにいるの、ここで生きているのだ! な に を、するぅぅう! えー!」
 蒼い牙が足の付け根の肉を食いちぎり、男女は泳ぐ者のように虚空でバタ足をした。見えない水の飛沫、水泡、鈍い濡れた音が、その虚空から生まれているようだった。足は存在しない水をかきながら千切れ飛び、単なる黒いタールの塊に姿を変えた。
 歯が、唇、髪、決意と夢は、ラ・バックの顎が胴体からことごとく引きちぎる。ちぎっては汚らしく咀嚼して嚥下する。食いこぼした飛沫は、力なく臙脂の絨毯に落ち、しばらくしぶとくもがいてから、乾いて死んでいった。
「生きよう! ふたりで生きましょう! いつまでも一緒よ、いつまでも夢を! ああ、ああ、夢を見ていてどこが悪い! われわれは無罪だ! 冤罪だ! えー! えー! 一緒よーッ! あハーッ! あー! あー、あー、あー…………はッ………く」
「いいや。あなたたちは死んでいる」
 その口の中に触手を叩きこみ、ラ・バックはそう言い渡した。そして――二枚の舌をばちりと千切り、第二の口で丸呑みにした。
「ばあああああああ」
 言葉を失い、黒いのたうつ腕と球体の胴だけになった怪物。ラ・バックは彼と彼女の前で、胸のホックを外し、首飾りを外した。第三の、巨大な顎が大きく開いた。涎が飛び散り、黒いものは吼えた。ラ・バックは右手を振るい、腕と胴だけになった化物を胸の顎の中に叩きこんだ。
「はははははは! えはははははは! おははははは!」
 笑い声にも似た咆哮を上げ、もがく四本の腕が、ラ・バックの腰や牙、第三の顎にしがみつく。掴まれた蒼い牙は折られた。腰には黒い爪が食いこんだ。
「う……」
 抵抗されるのはそう珍しいことでもないが、ラ・バックは顔を歪めて、三歩ばかり後ろによろめく。背中は、壁にぶつかった。鈍い衝撃がリンゴの部屋をささやかに揺らし、シャンデリアや天井から黒い埃が落ちた。人面蜘蛛の抜け殻や、蜘蛛の糸も落ちてきた。腕が暴れ、ラ・バックの眼鏡が落ちかけた。

(ここにいるわ)
(ここにいるよ)

 ふたりの言葉は、それが最後になった。
 ラ・バックの第三の顎が、力をこめて閉ざされた。蒼く鋭い無数の牙は、腕から胴を食い千切った。四本の腕が、ばらばらと力なく絨毯に落ちる。
 そしてのたうち、乾いて――
 消える前に、ラ・バックの第二の顎がさっとすくい取り、丸呑みにした。


 眼鏡を直し、息を整え、第三の顎を押さえながら、ラ・バックは静かになったリンゴの部屋を見回した。牙を何本か折られ、顎を鷲掴みにされた痛みは、長く鈍くラ・バックを苛んだ。涎は押さえている左手を汚した。生温かい吐息が、腹と胸の奥から漏れてくる。
 右腕と腹の顎はそのままにして、ラ・バックは鏡台に近づいた。
 ミラーボックスがあったのだ。鍵の類はついていない、簡素なものだった。だが、高価なものであるようだ。刻まれたバラとツタの紋様は、見る者にため息を与えるほどの意匠である。
 何かひとつ、部屋にあるものを持っていかなければならない。それは、このミラーボックス以外に考えられなかった。
鏡でできた宝石箱の蓋を、ラ・バックはそっと開けてみた。中に閉じこめられていたのは、〈たったひとつの帝國〉の紋章をあしらったピン、いくつもの勲章だ。ラ・バックは思わず、振り返ってベッドを見た。絨毯のしみも見た。
「帝國軍人が……そんな……」
 厳格で、統制を重んじる帝國民の中でも、とりわけ軍人は生真面目なはずだ。生涯帝國のことしか考えないという。夢人の中には、彼らは愛すら持ち合わせていないと見なす者も多かった。ラ・バックはそこまで彼らに辛辣ではなかったが、驚いた――帝國軍人は帝國を愛しているものだと思っていたからだ。
 そう言えば、マダム・ジョージが言っていた。この通りに面した酒場で、ザパンは帝國の元帥と、リム郷についての議論を交わしていたという。
〈黒いもの〉に喰われてしまった帝國軍人は、ザパンと語り合い、この宿の娼婦を愛したのか。娼婦もまた、帝國軍人の愛が貴重なものだと思っていたのかもしれない。その珍しい感情が自分に向けられたのだと知れば、自然と愛を返してしまうものだろうか。
 ラ・バックは胸の痛みを、牙が砕かれているせいだ、と思いこもうとした。


 マダム・ジョージは出入り口の傍らに立ち尽くしていた。目的を果たして戻ってきたラ・バックに、彼女は笑みを返さない。翳りのさした顔で、ラ・バックをねぎらった。
「ご苦労さま。……ひどい顔ね。手こずったの?」
「少し」
 ラ・バックは正直に答えると、リンゴの鍵と一緒に、部屋から持ち出してきたものをマダム・ジョージに手渡した。
「……ハ……っ!」
 ミラーボックス。
 女の箱の中に、男の勲章が入っている。
 それを受け取って、マダム・ジョージは口を手で押さえた。彼女(彼)の手の間から、押し殺された悲鳴が漏れる。完全に、それは女の仕種だった。
「結ばれたのね! そうよね、ふたりは幸せになったんでしょう!? どうして、……どうして泣かなくちゃならないのかしら。ワタシはふたりを祝福してあげたいのに!」
 彼女(彼)は男の声で、おうおうと泣いた。ひとしきり、号泣していた。
 リンゴの鍵は、マダム・ジョージの涙とともに落ちた。汚らしい猫の通り道に落ちた鍵は、跳ねて、飛んで、どこかの溝に落ち、毛のないネズミがくわえて、持ち去ってしまった。
「……ありがとう、処理官さん。これはワタシからの個人的なお礼よ。フレデリカには内緒にしておいて」
 マダム・ジョージは鼻をすすり、涙を拭きながら、ポーチの中から鍵を取り出す。ラ・バックが遠慮する余地も挟まず、マダム・ジョージは鍵を押しつけてきた。ラ・バックは戸惑い、まじまじと彼女(彼)の顔を見つめてしまった。
 彼女(彼)の化粧は、涙に濡れても、どれほど手やハンカチで拭っても、落ちたり乱れたりする様子がない。アイシャドウの乗った目蓋の上には、砂粒よりも小さな星が散りばめられているようだった。
「〈まっくろキティの館〉よ」
「いえ、あの……」
「明日迎えに行くわ。ゆっくり休んで」
 銀色のマダム・ジョージが哀しみにくれると、〈猫ストリート〉にも影が落ちた。カンテラの光は薄れ、音楽は優しくゆったりと流れ始める。男と女はうなだれ、道にくずおれて、マダム・ジョージに道を譲った。開け放たれたどこかの窓から、すすり泣きと死の嘆きが聞こえてくる。
静かな、大人しい音楽が流れる〈猫ストリート〉。ラ・バックは銅の鍵を持ったまま、そこに取り残されていた。マダム・ジョージは夜の向こうに去り、ラ・バックは顔を正面に向ける。
〈まっくろキティの館〉は目の前にあった。