四  思い出の果てに(3)




 出入り口には鍵がかかっていなかった。マダム・ジョージの鍵は、ここで使うべきではないようだ。中にはひどく背の高い、痩せた男が立っていた。ラ・バックも上背があるが、この男ほどではない。何しろ館の男ときたら、頭の頂きが天井についているのだ。巨人はじろりと目を落とし、ラ・バックの手の中にある鍵を確認した。
「部屋は二階だ。突き当たりの階段を11段上ってくれ。おやすみ、よい夢を」
 ぎょっとするほど甲高い、オウムのような声で男は言った。ラ・バックは頷き、言われるままに歩く。
 絨毯は正確なチェッカー模様だったが、まばたきをすると、白と黒がさりげなく入れ替わる。壁紙には渦を巻くツタが描かれていて、時おり時計回りに動いていた。
 館の中は静かだった――どこからか、六拍子の舞踏曲が流れてきている。外から入り込んできているのか、館の中で楽団が奏でているのか、はっきりとしない。
 やがてラ・バックの前に、階段が現れた。どこまでもまっすぐ、ひたすら上に向かっている階段だ。ラ・バックは長躯の男が言っていたとおり、素直に、11段を上っていった。足元を見ながら、一段一段数えて――11段目を数えたとき、顔を上げた。目の前に、ドアが現れていた。階段の下から見上げたときには、存在していなかったはず。
 ラ・バックはそのドアを、訝りながら銅の鍵で開けたのだった。
 ドアの向こうの様相は一変している。壁も天井も絨毯も、ただワイン色一色だ。照明すらもロゼ色をしている。
 廊下は迷路のように曲がり角が多かったが、一本道だった。ラ・バックは右折と左折を繰り返す。外から見た館の大きさからは考えられない距離を歩かされている気になった。いくつめなのかもわからない曲がり角を曲がったとき、ラ・バックの前に白い封筒が現れた。それは、このワイン色の空間の中で、目に焼きつくほど――どこかありがたく思えるほど、白かった。拾い上げ、ラ・バックは中から一枚のメッセージカードを取り出した。
『あなたが本当に会いたい人は? 声に出して言ってみて』
「……、ミラ・メルだ」
 ラ・バックは素直に従った。特に、何も起こらなかった。あえて変化が起きたと言うならば、それはラ・バックの心の中で起きただろうか。ミラ・メルを思い、彼はどうしようもない寂しさを感じた。
 廊下を進み、角を曲がる。
 また、白い封筒が落ちていた。
『それは本当に本当かしら? ドアは開いているわ』
 ラ・バックの前に、今は、赤いドアがある。


 ドアを開けると、そこにはキキョウがいた。


 美しい、緑がかった黒髪の――。
 柳眉。紅い唇。一重の目。
 キキョウ! まぎれもなくキキョウ!
 ラ・バックは驚き、思わず一歩後ずさりをしてしまった。それほど驚いたのだ。
「わたくしこそ、あなたが本当に本当に会いたがっていた人」
「……」
「どうぞ、愛して」
 ラ・バックは、呆然とした表情のままかぶりを振った。
 ここにキキョウがいるはずがない。キキョウがそんなことを言うはずがないのだ。しかも、その裸体にワイン色のシーツをまとっているだけ。彼女が胸元で押さえている手をどけたなら、その酒色の羽衣は落ち、美しい肢体がラ・バックの視界にさらされるだろう。
「……違う、あなたは……違う。ひょっとして〈ムーボの民〉ですか」
「……」
 キキョウの顔をした女は、困ったような顔をして、それから、すねたような顔をした。赤いシーツはしっかり身にまとったまま、彼女はダブルベッドに腰かける。しなやかで、静かな動きだった。
「……そうです、ムーボの民」
「……すみません」
「どうして謝られるの?」
「……その……、何か、あなたを踏みにじってしまったような気がする」
「いいのです。――わたくしに顔はあるかしら?」
「ありますよ」
「それなら、貴方は人を愛せるまともなお方ですわ。そのような方が、人の心をどうして傷つけられましょう」
 無貌の女は微笑み、立ち尽くしたままのラ・バックを見上げた。ラ・バックの胸は高鳴る。まともに目を合わせていられない。どう見ても、彼女はキキョウの顔なのだ。
〈ムーボの民〉は、〈アッバードの民〉よりもさらに稀少な種族だ。自分の姿というものを持っていない。見る者によって姿が変わってしまうのだ。多くの場合、見る者の記憶や感情に大きな影響を与えた者の姿になる。この女は、床に落としたメッセージによって、その日相手にする客の意識を操作しているのだろう。
 この女をパートナーにする男は、本当に会いたい者を見る――。
 ――ミラ・メルと会いたい。それは本当なのに、わたしは……キキョウさんを望んでいる。何てことだ……。
「〈クライ森〉を通ってこられたそうですね。シルドレは元気でしたか?」
 不意に、思いがけないことを、キキョウの姿をした女は尋ねてきた。この通りでは、噂があっと言う間に広まるようだ。
「ええ」
「彼もムーボの民なのですよ。ご存じでした?」
「初耳です。それに、これまでたくさんの人が彼を目撃して――彼らが話すシルドレの特徴は全部一致している。背格好も、声も。顔は……仮面をかぶっていましたが」
「顔さえ隠してしまえば、わたくしどもがさらすのは、当たり前の五体だけ」
 女は微笑み、シーツで顔を隠した。キキョウは消えた。今はただ、シーツに身を包んだ、女らしき人物がベッドに上に座っているだけ。女は再び顔を出す。唐突に現れたのは、やはりキキョウだった。
「自分の顔がないことに、恐怖を感じるムーボの民もおります」
「……シルドレは?」
「彼はイビトを愛してしまった。けれど、イビトに自分の姿を見せ、その姿を愛してもらうことはできない。だから彼は、顔を仮面で隠し、相手を眠らせてから愛すのです。彼は恐怖しているのではなく、絶望しているのでしょうね。生まれながらに、わたくしたちは罪のようなものを背負っています。その気がなくとも人を欺き、心を踏みにじることもある」
 キキョウは寂しい笑みを浮かべて、ラ・バックから目をそらした。
「踏みにじってしまったのは、わたくしのほう」
「……、自分の心を目の当たりにした。ただそれだけのことです」
「会いたい人や愛する人は、ひとりだけとは限りません。いえ……、きっと、ひとりだけではいけないの。どうか、ご自分を責めないで……」
 キキョウは立ち上がり、足音を立てずに――まるで猫のように、ラ・バックに近づいてきた。彼女の吐息は花の香りだ。キキョウはそっとラ・バックの顔を手で包み、彼の額に口づけをした。
 キキョウの唇も、同じように柔らかく、かすかに湿って、温かいのだろうか――。
 ラ・バックは淡い夢を垣間見た。
「おやすみなさい」
「……ありがとう」
 顔のない女は、赤いシーツで身を包んだまま、部屋を出て行った。最後に、キキョウの笑みを残して。


 それ以上夢をみるのが怖くなり、ラ・バックはひとりきりのダブルベッドの上で、制服を着たまま、目を開けたまま一夜を明かした。足の傷が今さら痛み、胸の傷はしぶとく居座っている。
彼は何度も、ため息をついた。





 巨人の甲高い声に呼ばれて、ラ・バックは部屋を出た。階段を11段上り、迷路のように入り組んだ回廊をさんざん歩いたはずだが、ドアの外にはただまっすくが廊下が伸びているだけで、しかもその先には出入り口と、例の長躯が立っていた。
 マダム・ジョージは〈まっくろキティの館〉の前で待っていた。相変わらず、〈猫ストリート〉は夜である。懐中時計が正しければ、確かに半日経ったはずだし、ラ・バックの傷の痛みも疲れもだいぶやわらいでいるのだが。
「よく休めた?」
「おかげさまで」
「そのわりには顔が暗いわね」
 怪訝そうな顔をしたマダム・ジョージは、昨夜のミラーボックスを手にしていた。
「さ、行きましょう。あんまりフレデリカを待たせると大変よ」


 フレデリカは、例の大きな酒場で待っていた。相変わらず不機嫌そうな顔で、彼女は椅子に腰かけていた。彼女の周りにはまだあどけなさの残る若い女がはべり、肥えた肩や膝を揉んでいた。
フレデリカの表情は、マダム・ジョージが抱えるミラーボックスを見た途端、一転した。まるで母親のような、深い慈愛に満ちたのだ。周りの女たちもまた、暗い顔でミラーボックスを見つめ、フレデリカから一歩ほど距離を置く。
「あんたを信用するよ、ラ・バック。ふたりを救ってくれたね。ありがとうよ」
 ラ・バックはわずかに微笑み、ただ黙ってかぶりを振った。
「さて……、〈黒の不吉な月〉だったね」
 どすんどすん、と歩きながら、フレデリカは話を始めた。その言葉が合図であったかのように、彼女がはべらせていた女たちは無言で置くに入っていく。
「何か飲みながら話そうか」
「ワタシ、ザパン博士がお好きだったものを」
「ラ・バックは? ……チョコレートリキュールかい?」
 フレデリカとマダム・ジョージは、カウンターにラ・バックを導く。ふたりとも、寂しげに笑っていた。酒はすぐに用意された。チョコレートリキュール。真紅のカクテル。そして銀リンゴ酒。
「〈黒の不吉な月〉――それは、薬の名前なのさ。シルドレが綺麗な顔と引き換えに、帝國から調合法を盗んできたんだ。むかあし、むかしにねえ」
「彼はここの住人だったのですか」
「むかあし、むかしにねえ」
 不敵に笑いながら、フレデリカは言葉を繰り返した。
「彼のことを知っている方が、〈まっくろキティの館〉にもいました」
「でも今は、自分がイビトにとっての『悪夢』になることで、〈黒いもの〉に近い存在になってしまったわ。フレデリカがここから追放したの」
「人聞きの悪い。あいつが自分から出て行ったんだよ。イビト好きなのは構わないけど、怖がらせちゃあまずいんだよねえ」
「……彼はイビトに危害を加える際、必ず薬を盛っているそうです」
「もともとあいつは、薬に詳しかった。あいつが普段使っているのは、〈黒の不吉な月〉じゃない。製法は真似てるだろうけど、もっとずっと効き目が弱い薬さ」
「〈黒の不吉な月〉は、相当危険な薬なのですね」
「あれほど怖い薬はないよ。帝國はそれを悪さに使ってる。でもあいつらは、この世界のために使ってると言ってるんだ。そういう國だからね、今さら文句言ったって仕方がない。あれを飲まされた夢人は死んじまう――黒いものになって」
 フレデリカは押し殺した声で、そう話した。
ラ・バックは、言葉を失った。ザパンのことを思い出したのだ。何者かによって殺されたザパンは、ラ・バックの目の前で黒いものに変じた――。
「それだけじゃない。イビトが飲んだら、すとんと眠っちまうのさ。夢の中で、眠っちまうんだ」
「莫迦な」
「信じないのかい。まあ、いいさ。あんたも彼女に会って話を聞けば、嫌でも納得するだろうから」
「……?」
「『神』を知ってる? ラ・バックさん」
 シルドレが言っていた、ラ・バックを含めた夢人にはよくわからない存在。
 神。
 フレデリカとマダム・ジョージは微笑んだ。
「ついておいで。〈元帥の思い出〉も一緒にね」
 フレデリカはひと息で真紅のカクテルを飲み干し、どすどすと酒場の奥に向かって歩きだす。ミラーボックスを抱えたマダム・ジョージがそれに続いた。
「彼女はリム郷には存在しない、大きな力なの」
 マダム・ジョージのその言葉に促され、ラ・バックも歩き始めた。このままチョコレートリキュールを飲んでばかりいては、取り残されてしまう。
「神っていうのは、世界を意のままに動かせる存在なんですって。知らないことはひとつもないし、できないこともない。世界を生かすも殺すも、神が決めることなのよ。夢みたいな存在だと思わない? いるとしたら、素敵よね」


 酒場の奥には、ドアがあった。隣の建物に続いているらしい。マダム・ジョージがポーチから鍵を出して、慎重に鍵を外し、ドアを開けた。
 ドアの向こうの廊下は、分厚いカーテンで仕切られていた。壁にもカーテンがかかっている。カーテンの色は臙脂であり、表面は紺碧の光沢に覆われていた。三人が歩くとカーテンは揺れ、真紅と紺碧のオーロラとなった。
 フレデリカは畳んだままの扇子で、廊下をさえぎるカーテンの端を叩く。カーテンは声もなく静かに開いて、三人を通した。やがてオーロラの向こうに、チョコレートでできたドアが現れた。
「さあ、会っといで。あたしたちの出番はここまでだ」
「〈元帥の思い出〉を持っていって」
 ラ・バックは、マダム・ジョージからミラーボックスを受け取った。ふたりは張り詰めた、真剣な面持ちだった。何らかの覚悟を決めているようでもあった。ラ・バックは年甲斐もなく緊張した――〈黒いもの〉と対峙するときとは違う、懐かしい高揚だった。そう、これは、大学で講義をする前に、学校で作文を読み上げるときに感じていた緊張である。
「……ありがとう。何がわたしを待っているのかは、正直、見当もつかないのですが……ともかく、道を指し示してくれたおふたりにお礼を。本当に、お世話になりました」
 フレデリカは不敵に、マダム・ジョージは艶やかに、ラ・バックを笑って見送った。
「あんたを信用しているよ」
「応援してるわ」
 ラ・バックはゆっくり微笑んで、ドアノブに手をかけた。ノブは砂糖菓子でできていた。疲れを癒す、甘い香りがそこかしこから漂っている。
 ドアは、不思議な音を立てて開いていく。