
御樹の想い出は、とても鮮やかだ。
摩央はいつでも、12年前のその出来事を、ありありと思い出すことができる。
安笠摩央はそのとき、5歳だった。
◆◇◆
庭の御樹を傷つけてはならない、と摩央の両親は呪詛のようにしつこく摩央に言い聞かせていた。摩央だけではなく、園丁も御樹を傷つけないよう気にかけなければならなかった。いつものんびりとしているマイペースな安笠夫妻だが、仕事や御樹がかかれば、ナチの高官のように冷徹な人間になることがある。うっかり御樹の枝を1本落としてしまったドジな園丁が、その場で解雇されたこともあった。
その頃から摩央は、冒険や、きまりを破ることに惹かれる性分だったのかもしれない。
両親は彼女にとっては都合のいいことに、多忙だった。使用人たちが掃除や食事の支度といった仕事に追われている間、摩央はこっそりと庭に行き、御樹のそばで遊んでいたのだった。
いちばんのお気に入りの遊びは、木登りだった。
御樹はすっくとまっすぐに幹を伸ばしている。その幹の太さは、軽く大人3人が両腕を広げて手をつないだ分あるだろう。
しかし、樹皮とゴムの靴底との相性がいいのか、するすると容易く登ることができた。傷つけてはならない、という掟があるから、枝も伸び放題だ。おてんばな摩央は大人たちに黙って、何度も何度も御樹に登っていた。
ほんの子供であったのに、どこまででも高く登れた記憶がある。
黒い枝葉の隙間から見えるのは、散り散りになった空の光。近づけば近づくほど強くなる陽射しを、枝葉が遮ってくれたのだ。
そのうち、枝葉が空に見え、点々と漏れる光が星に見え始めた。
夜空だ。
摩央は憑かれたように、夜空に向かって登っていた。
気づくと、摩央は屋敷の屋根よりも高いところにまで、御樹をよじ登っていた。
気づいた瞬間から、恐怖がその鉤爪を伸ばし、摩央の胸を鷲掴みにした。神秘的な擬似の夜空は消え、いつもよりも近くに感じる太陽と、ざあざあ嗤う枝葉が視界に飛びこんできた。見下ろしてみると、遥か遥か下に、手入れが行き届いた芝生がある。
いつの間に自分は、これほど登っていたのだろう。
それ以前に、どうしてここまで登ってこられたのだろう。
摩央は快活だったが、取り立てて筋力や運動センスに優れた子供だったわけではない。
まるで御樹が、登るのを手助けしてくれていたかのようだった。
見るがいい、おまえが望んだ景色だ。
素晴らしいだろう。
おまえは誰よりも高みにいる。
御樹がそう言って嗤っている。悲鳴すらも凍りついた中で、摩央は謝った。御樹で遊んでしまった罰を受けていると思ったのだ。
ひょっとすると、登っている最中、足がかりにした枝を折ってしまったのかもしれない。樹皮を剥がしてしまったのかもしれない。
ともかく御樹は、怒っているのだ。
あとで両親に怒られる、という恐怖はなかった。大人たちよりも強大で、畏るべきものが自分を抱きかかえているのだ。自分は神の手のひらの上にいる。
神がその手を握りしめてしまえば、自分は死ぬ。
御樹が身震いをひとつするだけで、自分は高みから落ちるのだ。
豪邸と呼ばれる安笠邸の屋根から落ちるだけでも、骨の1本や2本折るだけでは済まないはずだ。今摩央は、その安笠邸の屋根よりも高いところにいる。
「ご、ご、ご……ごっ、ご、……」
ごめんなさい。もうしません。たすけて。ごめんなさい。あやまります。たすけて。おねがいです。ゆるしてください。
「お、お、おんじゅ、さま……」
ごめんなさい。たすけて。おろして。おねがい。ゆるして。
「な、な、な、なんでも……します……」
おろして。おろして。たすけて。たすけて。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!
幹にしがみついてぼろぼろと涙をこぼし、震える口のかわりに、心で摩央は謝った。
『そうか、そちは余に従うのだな。そちは、余のものだな?』
その摩央に、御樹が確かに囁いたのだ。恐怖に震える摩央は、不意に聞こえたその声に、最早驚く余裕もなかった。
冴えた低い声は、ざああ、ざああという枝ずれの音だったのかもしれない。――ともあれ、声はけっして、摩央の無礼に腹を立てているふうではなかった。言い回しは古風だったが、おどけながら子供をあやしている、そんな声色だ。
摩央は我を忘れて、声を張り上げた。ほとんど悲鳴だった。
「はい、はいッ、なんでもします! どんなばつもうけます! おんじゅさま、ゆるしてください! まおは、いま、しにたくありません!」
『愛い奴。そちはマオという名を持つか。そうか……そうか、畜生にも名があるとは聞いていたが』
ざざざ、と御樹が言葉を切って含み笑いをした。
『案ずることはない。余はそちの血族の果肉が熟すまで、頼まれずとも庇護する者よ。そちを罰する気などは毛頭ない。良かれと思うて引き上げてやったが、そうか、高みは恐ろしいか。それは、悪いことをした。愛が裏目に出てしまったな』
ざざざざざ、と声を上げて御樹が笑う。
嘲笑ではない。温かい笑い声のようで、どこか末恐ろしい。人間よりもずっと力を持った者の、余裕の笑みだ。
『跳べ。余が抱きとめてくれる』
『恐ろしいか。ならば目を閉じよ。然るのちに跳べ』
『案ずるな。余が抱きとめる』
言葉は現実のものだったのだろうか。
恐らく、ただのまぼろしだ。
摩央の脳裏に、『飛び降りる』という向こう見ずな選択肢が現れたのは、ただの偶然かもしれない。何しろそのとき、摩央はおてんばな5歳だった。突拍子もない考えに行き着いても、大人たちは疑問を抱かない。
摩央はそろそろと幹から手を離し、ぎゅっと固く目をつぶって、御樹の枝から――飛び降りた。
ざざざざざああああああああ!
突風でも、吹いたのだろうか。
とにかく摩央は、何も見なかった。目を閉じていたのだから。
ただ、御樹の枝が大きな音を立てて揺れているらしいことはわかった。身体に打ち付けられる風が、ふっと止まり、しっとりとしたものが身体を包んでいくのがわかった。
とすっ、とあまりにも軽い衝撃が、摩央の身体を走る。
恐々と目を開けてみれば、摩央は芝生の上にうつ伏せで倒れていた。ベッドに身体を投げ出したときの衝撃よりも、まだ柔らかかった。
ゆっくりと身体を起こし、頭上を仰ぐ。
ささささ、
御樹が含み笑いをしていた。
摩央の身体にはかすり傷ひとつなく、御樹の枝は1本たりとも折れてはいなかった。
摩央は立ち上がると、服についた葉や汚れを払い落とし、御樹を見上げながら、後ずさりをした。
「お、おんじゅさま――」
『忘れるな。これで、そちは余のものだ』
ざばわざばわざばわ――。
確かに御樹は笑っていた。とても嬉しそうで、楽しげであった。摩央を咎める気などまるでなさそうだった。
摩央は一目散に、その場から逃げ出した。大人たちには、この出来事を一切話さなかった。自分の中だけにしまっておくことにした。
御樹は怒っていなかったが、話を聞けば両親は怒るにきまっている。
屋敷に飛び込むと、昼食の香りがした。使用人が出迎え、顔色が真っ青だ、と驚いていた――。
◆◇◆
それは、摩央が5歳のときの思い出だ。
その日の昼食が何であったかは覚えていない。覚えているのは、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
摩央はその思い出を、17歳の今日に至るまで、自分の中だけにしまってある。
17歳――。
摩央は、17歳になってしまった――。
◆◇◆
御樹を登って危うく死にかけた、後日のことだ。
この記憶もまた、摩央の中では色褪せない悪夢であり続けている。
摩央が大人たちに初めての秘密を持った数日後、郊外から曾祖母が安笠邸を訪れた。摩央の親戚の数は膨大なもので、顔と名前を一致させるのは、17歳になった今でも至難の業だ。5歳当時など、ほとんど覚えていなかったと言っていい。
しかし、彼女は5歳だったので、覚えていなくとも大きな支障ではなかった。周囲が大目に見てくれたのだ。特に摩央は現当主の1人娘であったし、人形のように綺麗だとちやほやされていたから。
だが、その5歳の摩央も、曾祖母の姿や名前ははっきり覚えていた。
安笠ソヨ。
背中も曲がり、両目とも白内障を患っていて、ほとんど視力を失っていた。摩央が5歳だった当時、102歳だった。白髪は蜘蛛の糸のように細かった。白内障のために濁った目や、世田谷区郊外の屋敷からほとんど外に出ない生活から、肌も白い。白い老婆、というのが、摩央が曾祖母に対して抱いていた印象だった。白い魔女、と言ってもいいかもしれない。
どういった経緯があって、その日摩央の住む安笠邸にソヨがやってきたのかは、摩央も知らない。だが、しばしば多くの親戚を引き連れてやってくることがあったから、別段曾祖母の訪問は不思議なことでもなかった。
視力を失っていることもあって、曾祖母は親戚の介護を受け、車椅子で移動していたが、102歳とは思えないほど元気だった。子供の摩央にもはっきりと聞き取れる言葉を話し、誰かの言葉を聞き返すこともめったになかった。
ソヨは安笠邸を訪れるたび、御樹に挨拶をする。
摩央は両親と一緒に、曾祖母の車椅子を押し、庭の御樹のもとに行った。
ソヨは手を合わせ、ぶつぶつと御樹に祈りを捧げていた。
ソヨには、かつての安笠の役割であった、シャーマンとしての能力が備わっているという話だった。摩央や摩央の父はささやかな霊感さえも持っていなかったが。
曾祖母や祖父母たちが言うには、御樹にこうして敬意を表し、祈りを捧げていたおかげで、太平洋戦争の最中でも、安笠家は安泰であったらしい。安笠邸周辺は空襲の被害に遭うこともなく、近所の人間が安笠邸に避難してきたことさえあったそうだ。徴兵されていった安笠の男たちも、皆無傷で帰ってきた。
ざざざざざ……。
あの転落から、御樹と向かい合うのを少しためらうようになっていた摩央だったが、ソヨの祈祷には付き合わなければならないのだから、仕方なかった。
枝ずれの音を頭上に感じながら、摩央はじっと大人しく、黙っていた。
「お、お、おおおおおお!」
ざあっ、と風が抜けたとき、ソヨが白い目を見開いて、突然大声を上げた。摩央たちは肝を潰した。
その声は屋敷にも届き、ソヨの身の回りの世話をしている者たちが、慌てふためいて駆けつけてきた。
ソヨはわななき、ぱくぱくと口を開け閉めして、叫び続けていた。ソヨがボケた、ソヨの体調が悪い、などという話はこれまでに持ち上がったことがなかったため、突然のソヨの異変には周囲も戸惑うばかりだった。
「摩央! 摩央ちゃん!」
ソヨはやがて、摩央の名を呼びながら、虚空に手を泳がせた。摩央は誰に促されることもなく、さっと曾祖母の前に立ち、その皺だらけの手を握った。
「ひいおばあさま! まおはここです!」
「摩央ちゃん! ああ、ああ……かわいそうに! ……いいえ、違うわ! なんて……なんて喜ばしいことかしら!」
ソヨは混乱しているようだった。言葉を懸命に選びながら、摩央の手を探り、ぎゅっと握りしめる。濁った目は、あらぬ方向を見つめていた。
「摩央ちゃん! あなたはね、あなたはね……17歳でお迎えが来るのよ。17歳までしか生きられないのよ! 摩央ちゃん、あなたはね……おお、おお、桃代や荘助やヨシノ……幹子に、桐三郎……あの子たちのように……おお! 稜太郎、さやかさん! この子を17歳まで、しっかり……大切に……育てるのだよ! 安笠のために!」
ああ、忘れもしない、忘れることなどできはしない。
摩央はその日から、17歳の今までを生きてきた。17で死ぬ、という儚い己の運命を密かに信じながら。
安笠ソヨはその騒動から1年も経たずして他界した。死因も葬儀も覚えていない。摩央がはっきり覚えているのは、あまりにも若い自分の死期を予告された、その日のことなのだ。
しかも具合が悪かったのは、周囲の反応だった。誰も、年寄りの訳のわからない戯言だから気にするな、とは言わなかったのだ。
かわいそうに。おまえは17で死ぬのだね――。
はっきりと口には出していないが、摩央の親戚や両親は摩央を17で死ぬものとして扱った。欲しいものは言えば何でも手に入れてくれた。行きたいところを言えばすぐに連れて行ってくれた。どんなわがままも許してくれた。
命短し、生きよ乙女と――蝶や花よりも大切に育てられた。
甘やかされ、憐れみを受けて、摩央はすくすくと育った。大きな怪我も、病気もせずに。
それでも摩央がひねくれた単なるわがまま娘に育たなかったのは、彼女自身が曾祖母の予言を強く信じているからかもしれない。
彼女は、何に対してもあまり期待をせず、常に冷めた視線でものの価値を判断する、落ち着いた少女になっていった。
人からどんなに好かれようと、嫌われようと、愛されようと――。
自分は17で死んでしまう。
どんなに友人を作っても、どんなに素晴らしい詩や思い出を残しても――。
安笠摩央は17歳で死んでしまうのだ。
曾祖母が神がかりの中で叫んだいくつかの名前について、摩央はすでに調べ上げている。
安笠桃代、安笠荘助、安笠ヨシノ、安笠幹子、安笠桐三郎。
全員、摩央が顔も声も知らない親戚だ。安笠の血を引く一族である。
彼らは、皆若くして消えているのだそうだ。多くは、20歳を迎える前に。容姿端麗と周囲にもてはやされていた彼らは、ある日、何の前触れもなく神隠しに遭い、それきり戻ってこなかった。
安笠家の老人たちは、その不気味な失踪を『お迎えが来た』と呼んでいた。
安笠の者が消えるのはたびたびのことで、最も新しい失踪者は、安笠幹子とのことだった。
幹子は、摩央の祖母の妹にあたる。資産家の許婚として、幸福な将来を約束されていたはずだった。
彼女は18歳で消えたという。摩央が生まれる前の出来事だ。
安笠の者にお迎えが来て行ってしまうと、数日後に、消えた者の私物が、安笠邸にいつの間にか届けられているのだった。多くの場合、それは着物や履物だ。失踪者は着替えも財布も持たずに行ってしまう。消えたときに持っているものと言えば、着物や履物ぐらいだろう。その、身につけていたものだけが、無言で帰ってくる。
安笠家は、迎えられていった者を手厚く葬った。戻ってきた私物を焼き、骨壷に収めて、墓を立てるのだ。灰の一部を御樹の根元に撒くというしきたりもある。
摩央がそのすべてを知ったのは、16歳の頃だった。
『お迎え』が翌年に迫った、その頃だった――。
◆◇◆
ごきげんよう、という清楚な挨拶を背にして、摩央はその日も、まっすぐ混雑する正面玄関に向かわなかった。
授業とホームルームが一通り終わり、校内のざわめきが消えるまで、摩央はまず図書室で、芥川賞受賞作や森鴎外を読み、静かに時間を潰す。
それから、東校舎の外れの準備室に向かうのだ。
楔果女学院の古い校舎は、大きく分けて3つの棟に分かれていた。第1校舎と第2校舎、そして東校舎だ。
東校舎が『第3校舎』と呼ばれていないのは、多くの生徒にとってあまり馴染みのない棟だからかもしれない。1階は体育館と繋がっており、大部分の部屋が部室や物置として使われている。2階から上の階層は、いったい何の『準備室』なのかわからない準備室や、空き教室で占められていた。東校舎の2階から上は、いつも静寂の中に沈んでいる。だからこの棟は、生徒同士の深刻な相談や、内緒話、そして喫煙に使われている。
安笠摩央は、自分以外に煙草を吸っている生徒を知らない。
自殺した香田美遊は、どうだっただろうか。吸っていただろう、という見当はつくが、本当に吸っていたのだろうか。廊下ですれ違ったとき、髪がいつも煙草臭かった気はするのだが。
古い黒板、空っぽの本棚、壊れた机と椅子、古びたバケツ、汚いモップ、埃まみれの布。
開けづらい窓。止まった時計。使われていないロッカー。遠くの音。
摩央は、この静寂が好きだ。自宅の自室の静寂に似ている気がする。摩央の部屋はいつもきれいに片づいて、掃除が行き届いている。雑然としたこの準備室との共通点は、その静寂だけだが――それでも、摩央は、ここにいると落ち着くのだった。静かだから、もし誰かがこの準備室に近づけば、足音が響く。気配が近づいてくることに気づけば、すぐに煙草を隠せる。
摩央は今日も、窓を開け、鞄から煙草を取り出した。
バージニア・スリム・ワン・メンソール。
今日の空は雲が少ない薄い青、テニスボールの音は聞こえない。
「何をしているんだね」
突然だった。
◆◇◆
自業自得なのだから仕方がない。
それはわかっている。悪いことはするものではないのだ。
だが摩央は、高田を許せなかった。
近づく足音もなく、ガラリと突然開いた引き戸。冷静な摩央も人並みに驚き、煙草を――上品な、少し汚れ始めたパッケージの煙草を――落とした。パッケージは落ちた。埃が這いまわる床の上に、ぱたり、と小さな音を立てて。
しばらく、摩央と高田教諭は無言で見つめ合っていた。高田の顔は、正直、変だ。おかしい。こけた頬に、ぎょろりとした大きな丸い目。薄い唇。短い髪。にらめっこでは負け知らずなのだと授業中に自負し、生徒たちは「宇宙人のようだ」と陰口を叩く。
そんなユーモラスな顔を見つめても、このときばかりは、笑う気になどならなかった。
「それは?」
「煙草です」
見ればわかるでしょう。
口答えは結局しなかった。高田はつかつかと摩央に近づき、落ちた煙草を拾い上げ、中を見た。中には12本のバージニア・スリム・ワン・メンソール。
「自分が何をしたかわかってるね?」
「はい」
つまらない質問。
やはり、摩央は口答えしなかった。
「安笠君。きみは時々煙草臭かったからね。見ていたんだよ。この準備室も、たまに煙草臭い日があった。気づいてないとでも思ったのか?」
「すみません」
「謝って済む問題じゃない!」
だから、すみませんって言ったのよ。
――ああ。なに、つまらないこと考えてるの。
摩央はそれきり、押し黙った。淡々と話していた高田の顔と声には、いまや激しい熱がこもっていた。だが、高田に対して摩央は穿った視点しか持っていない。本気で彼が怒っているのかどうか、探りを入れようとしていた。
彼女は冷静だった。
それに、何に対しても期待をしない性質だった。
恐らくこの喫煙は両親や担任、教頭、理事長に知らされることになり、この清楚な学校から放り出されるのだ。
摩央に甘い両親も、今回はさすがに黙ってはいないだろう。どれだけ叱られ、どれほど失望するか。
もし、そうなったら――。
そんな未来のヴィジョンを何も抱かず、彼女は煙草を吸っていたわけではない。頭の中でシミュレートしていた事態が、今まさに現実のものになろうとしている。
「……しかしどうして、君が、こんな馬鹿なことを?」
椅子を摩央の正面に引き寄せ、埃を払ってから、高田は深々と腰を落ち着けた。
理由など、よくわからない。――あるのかもしれないが、話したところで高田には理解できないだろう。
どうせ17で死んでしまう自分だから、やりたいことを今のうちにやっておこうと思った――そう話したところで、高田は納得しないだろう。この真実は皮肉にも荒唐無稽すぎるし、摩央自身、納得できていない。そして、確かに、動機の根底の部分はそうなるだろうが、だからと言って、なぜ自分が煙草を選んだのかははっきりとわからないのだ。
摩央は俯き、ゆっくりとかぶりを振った。
「カッコいいと思った?」
「いえ……」
「おいしいと思ったのか?」
「いえ……」
「なんとなく吸ったんだな」
「……」
「そういうのが一番多いのかもしれないな」
高田も、俯いた。
2人で俯く準備室は、相変わらず静かだ。金曜は、テニス部の練習が休みらしい。金曜は多くの生徒が、早く帰りたがる。そう言えば、今日は静かになるのが早かった。今日は金曜だったのだと、摩央は今さらぼんやり考えた。
「明日から2連休だ」
「そうですね」
「月曜までに――じっくり、2人で話し合おう」
摩央は顔を上げた。
「……えっ?」
「先生も鬼じゃない」
高田が顔を上げた。
「携帯、持っているね。君の携帯の電話番号を教えなさい。待ち合わせの場所をあとで連絡するから」
さすがの摩央も言葉を失い、足や手ががくがくと勝手に震えだすのを感じた。その震えを押し殺すことに精一杯で、返事などできない。動くこともできない。鞄から携帯電話を取り出すことも、息をすることも、泣くことも、叫ぶことも!
硬直している摩央の様子を見て、高田は不意に手を伸ばした。
息を呑み、摩央は身体を強張らせて、その手から逃れた――が、高田の手は摩央ではなく、初めから鞄を目指していたようだ。
高田は摩央の鞄を掴み、中をまさぐって、携帯電話を取り出した。摩央はひたすら、高田の行動を見つめていた。
高田は慣れた手つきで携帯を操作し、目的を果たしたあと、すぐに鞄に摩央の携帯を戻した。
鞄は、摩央に突きつけられた。
「……煙草臭い髪だな」
まばたきもせずに鞄を受け取った摩央の、
その黒い髪を、
高田はぞろりと撫でたのだ。
摩央は悲鳴も上げずに飛び上がり、準備室のがらくたに蹴躓きつつ、準備室から逃げだした。
誰もいない東校舎で何よりだった。
いつもはスカートのプリーツを乱さずに、淑やかに、廊下を歩く安笠摩央は――
無我夢中で、駆けていた。
◆◇◆
深夜ドラマのような展開だった。喫煙現場を押さえたのが高田だったおかげで、摩央は安泰な金曜の夜を送れそうだ。もしあの場に現れたのが教頭の石川だったならば、今頃家も学校も大騒ぎだろう。
しかし、相手が石川だったとしても高田だったとしても、他の教師だったとしても、摩央は今夜眠れない。それだけは、確実だった。
――殺しとけばよかったの? 凶器はたくさんあったし、東校舎にはわたしたちしかいなかった。
摩央はベッドに腰かけ、静かな自室に篭もって、ぐるぐると物騒な思考を巡らせていた。
使われていない黒板を倒して高田を怯ませ、足元にあったバケツで殴るべきだったか。それともやにわに立ち上がり、座っていた椅子で脳天を殴るべきだったか。いやいや、男の急所を蹴り上げて、然るのちに机を叩きつけるべきだったかもしれない。
どれもこれも、シミュレーションは簡単にできた。
そして、どれも、結果を導き出したところで、後悔の念に辿り着くだけだった。
どのみちこの問題は、自業自得の結果なのだ。
しかし――しかし、摩央が今までシミュレーションしていた『安笠摩央喫煙事件』のどのストーリー展開にも当てはまらない、恐るべきダークホースが控えていた。
――どうすればいいの? わたし。
高田からはつい先ほど、メールがきた。彼は摩央の電話番号だけではなく、メールアドレスも確保していたらしい。
土曜、つまり明日午後1時、ホテル『ダイス』ロビーで待つという――。
両親や教師に相談することもできない。喫煙が明るみに出てしまう。高田のもとに行けば、何をされるのかも大体見当がつく。待ち合わせ場所はラブホテルだ。
高田はわざわざ、ホテル『ダイス』をとらえた写メールを送ってきた。どこからどう見ても、『ダイス』はラブホテル――最近で言う、ブティックホテルというものだった。一見洒落ているように見えるが、よく見ると悪趣味な外観なのだ。
高田につきまとう卑猥な噂は、裏づけのあるものだった。
――どうしたら。
摩央はベッドに横たわった。とすっ、と枕が呻き声を上げる。
シーツを這う自分の長い髪が、視界に入った。思わず、強く息を吸って、その匂いを嗅いでいた。煙草の臭いはしない。結局、今日は吸わなかったのだから。
ドアがノックされた。
おずおずとした、弱いノックだ。このノックの仕方は――母である。
「開いてる」
ベッドから起き上がって、摩央はドアの向こうにそう声をかけた。予想どおり、入ってきたのは母親のさやかだった。
摩央の父の会社で幹部の地位にあり、仕事や規律には厳しい母だ。社員には恐れられているが、尊敬もされていると聞く。しかし、プライベートでは呑気な母だ。よき母、とも言えるだろう。
「お母さま――」
「何かあったの?」
摩央はもちろん、今日の放課後に何をしようとしてどうなったか、その切れ端さえも家族や恵津子に見せていない。いつもどおりの冷静な面を見せたつもりだった。
しかし、よき母の目をごまかすことはできなかったようだ。母は腕を組みながら、摩央の隣に腰掛けた。
「どうしたの、急に」
「今日のお夕食は、摩央が好きな舌平目だったでしょう。しかも、クリームソース。なのに、あなたはほんのひと口しか食べないんだもの。スープにもパンにも手をつけなかったわ。具合が悪いか、何かあったか……そう考えるのが自然だと思わない?」
母は、摩央と同じ(いや、摩央が同じなのだ)美しいストレートの黒髪を持っていた。あまり長いとデスクワークに差し支えるため、顎までの長さで切り揃えている。髪が揺れるさらさらとした音が、耳を澄ませば聞こえてきそうだ。
特別整っているわけではないが、凛とした印象を他人に与える顔立ち。40の女にしては、若々しかった。
そして、母は強い目を持っている。
子供の心などいとも容易く見透かしてしまう、恐ろしい目だ。
「……食欲がなかったの。理由は……わからない。胸がちょっとむかむかして」
「あら! 若いのに、胃を悪くした? お昼には何をいただいたのかしら?」
「恵津子さんのお弁当よ。普通の……今日は、カツサンドだった」
「こってり系じゃないの。男の子のお昼じゃないんだから、恵津子さんたら。……もしかしたら、カツを揚げた油が古かったのかもしれないわね。恵津子さんに言っておくわ」
「言うほどのことじゃないと思う。カツサンドは好きよ。お母さまの大目玉でカツサンドをお昼に作ってもらえなくなったら、わたしは困るの。がっかりする」
「そう? 摩央がそう言うなら……目をつぶるしかないわね」
母は立ち上がり、摩央を見下ろして、優しく微笑んだ。
「お父さまの胃腸薬を持ってくるわ。漢方がいい? それとも市販の?」
「ありがとう。何でもいい」
ドアが閉まり、スリッパを履いた母親の静かな足音が遠のいていく。そう言えば、ノックされるまで足音に気づかなかった。
足音。
ウサギのように耳がよければ、いかなる足音も聞き逃さなかったかもしれない。
再び摩央は、ベッドに倒れこんで、枕を抱いた。
今、母親にひとつだけ嘘をついた。
食欲がない理由がわからない――。
嘘だったのは、その部分だけだ。胸がむかついていることや、カツサンドが好きだということ、カツサンドが今後食べられなくなるのは残念だということも、本当だ。恵津子を叱ってほしくない、というのも本音だった。
摩央の胸のむかつきは、絶対に、カツサンドを食べたためのものではないのだから。
母親には、気づかれただろうか。
嘘をついたということ。
深夜ドラマのような出来事があって、摩央が罪悪感と絶望に苛まれているということ。
できることなら、今すぐ『お迎え』が来てほしい。
消えてしまいたい。
摩央は初めて、そう思った。
高田のメールには返事をしなかったが、摩央は明日1時にホテル『ダイス』に向かわなければならなかった。
