暗い夢を見た。
 絶望が目の奥で渦を巻き、暗黒を生み出しているかのような、深い深い夢だった。
 ……気が、する。


 暗い夢から覚めたあとも、摩央の気分は優れなかった。むしろ、昨晩よりも悪くなっている。腹の奥から吐き気がこみ上げてくるし、頭痛もした。夢の内容は詳しく覚えていないのだが、それがかえって不愉快だ。思い出せそうで思い出せない悪夢のかけらは、朝の陽射しを浴びると、ゆっくりと融けて消えていった。
 安笠家の朝は早い。
 最近になって週休2日制が叫ばれるようになった日本社会だが、摩央の両親は週休1日でも取れたらいいほうだ。毎日毎日忙しくしている。この土曜も、朝食をすませたらすぐに出社だ。
 朝食は、この邸宅にいる限り、家族全員が揃って食べるきまりがあった。
 出張であるとか、問題が起きて会社で夜を過ごすようなことがなければ、摩央とその両親は同じものを、同じ時間に食べるのだ。
 おかげで摩央は土日でも早起きができる少女に育った。学校や約束に遅刻したことは一度もない。
 食事は好き嫌いせず、なるべく残さないようにするというきまりもある。しかしこれも、やむをえない場合はその限りではない。
 たとえば、胃の調子が悪かったり、体調を崩していたりといった、深刻な場合だ。
 摩央はその、深刻な状態にあった。
 さくさくとしたクロワッサン、半熟のスクランブルエッグ、かりかりに焼かれたベーコン、牛乳(最近は豆乳であることも多い)、フルーツ。
 いつもどおりの朝食のほとんどを、摩央は残した。
「――ごめんなさい。わたし、残す」
「ん」
 父稜太郎が眼鏡を押し上げ、摩央の前の皿やマグカップを睨む。
「半分も食べてないじゃないか」
 怪訝な声色で言ってから、摩央の顔を見た父は――眉をひそめ、フォークを置いた。
「摩央、どうしたんだ。顔色が悪い。最悪だ。幽霊みたいじゃないか!」
 多忙で冗談があまり通じない父だが、摩央に対する愛情は確かなものだ。たまの休みがあれば必ず摩央や妻とともに郊外や繁華街に出かけ、毎朝こうしてともに食事をとり、今朝のように家族の体調不良を心から案じる。父が呆然とした声を上げたとき、母もフォークを置いて、摩央の顔を覗き、それから夫の顔を見た。
「昨日も食べなかったのよ。胸焼けがする、って言って」
「それじゃ、昨日の昼からろくに食べていないことになる。かえって身体に悪い。卵だけでも食べなさい」
「ごめんなさい、でも……」
「食べるんだ。それから部屋で休んでいなさい。医者を――そうだな、杉山君なら内科に強いだろう――すぐに呼ぶからな」
「お嬢様、なんでしたら、今からすぐにおかゆをお作りします」
「……」
 ――やめて。
 摩央は指の震えを隠すのに必死だった。
 ――そんなに優しくしないで。こんなことになったのは、全部わたしのせい。わたしがみんなを裏切っていたから……だから罰を受けたのよ。お願い、やめて、……泣いちゃうから!
「……あ、ありがとう、でも、ちょっと横になる。おかゆなら食べられるかもしれない」
「恵津子さん」
「はい、すぐに! できましたら、お部屋にお持ちします!」
 摩央はさっと立ち上がり、広いダイニングをあとにした。背中に父の太い声がぶつかってくる。
「暖かくして寝なさい!」
 その言葉は、かえって冷たい刃物のように、摩央の胸を貫いた。
 摩央はそのとき、ようやく泣いた。彼女はすでに泣いたことがあるような気もしていたが、あの放課後から、彼女が泣いたのはこのときが初めてだった。
 泣いたとしたら、あの暗黒の夢の中でのことだろう。


◆◇◆


 ホテル『ダイス』に行かなければならない。待ち合わせは1時だ。昼食を食べたら、家を出る予定だった。
 しかし、現在、午後1時15分――摩央は、自室で、ベッドの中に潜りこんでいる。
 刻々と迫る約束の時間までをそうして過ごし、約束の時間が過ぎたあとも、こうして過ごしている。
 両親はもう仕事に出かけてしまったが、使用人が隣の部屋で目を光らせていた。両親はぎりぎりまで摩央の容態を気遣い、医師の杉山が訪れるまで家にいた。
 秘密と、それがもたらす食欲不振が、ここまでことを大きくするとは思わなかった。
 医師には、食欲不振が病からくるものではなく、ストレスが原因にあることを見抜かれたようだ。
 恵津子がわざわざ作ってくれた粥は優しい味がしたが、それも、ろくに飲み下すことができなかった。空っぽの胃袋が、きりきり痛む。
 胃と頭の痛みに顔をしかめながら、摩央は無言で横になっている。
 そのうち、約束の時間から1時間が過ぎた。布団の中から顔を出した摩央は、部屋の中に日光が射し込んできていることを、ようやく知った。
 午前中は空が曇っていたのだろうか――自分が見つめる世界が、暗鬱で、重苦しい色彩の中に沈んでいるような気がしてならなかった。
 窓の向こうでは、御樹の黒い葉が揺れている。
 黒い葉が、どこまでも深い黒い影を落としている。不吉で、存在感がある。黒はカリスマだ。ときに、光の白を凌駕することもある。
 揺れる黒い影が、不思議な呪文のように、摩央を眠りへと誘った。頭の後ろに鉛をこめられたような、重く、つらい眠りだった。


 *


 *


 *




「……!」


 目が、覚める。


 夢を見たらしい。


 暑苦しい布団の中で目覚めた摩央は、跳ね起きた。彼女を取り巻いていた澱んだ空気が、ひと息で新鮮なものに変わる。
 誰が開けたのだろうか――窓が開いていて、御樹をはじめとした庭の草木が作る空気が、部屋の中に注ぎこまれていた。ざああ、ざああというのは、風に揺れる御樹の囁きだ。御樹は、笑っているのだろうか。
 レースのカーテンは、音もなく揺れている。
 摩央はのろのろとベッドから降り、窓に近づいた。眠りにつく直前、頭の後ろに詰めこまれた鉛は、ほぼ全身にまわったらしい。身体はだるく、まるで自分のものではなくなってしまったかのようだった。覚めているはずなのに何も考えられない。思考という思考がぼんやりと曖昧で、何の感情も湧き上がってこない。
 眠りすぎたのだ。
 窓から見えた景色は夕暮れだった。
 摩央は黙って窓を閉め、レースのカーテンを引いた。
 時計を見る。午後5時。
 恐る恐る、摩央は枕元に置いていた携帯電話を手に取った。メールが2通来ていたが、母と友人からのものだった。母は身体の調子を気にかけており、友人は他愛もない雑談を振ってきている。
 高田からの反応がない。
 今は高田と一切の関わりを持ちたくない。声も聞きたくないし、彼が打ったメールも読みたくない。無反応はありがたい――が、無反応というのは、おかしな反応ではないか。
 喫煙の事実をダシに、高田はいくらでも摩央を操ることができるのだ。金づるにも、欲望のはけ口にも、犯罪の片棒の担い手としてでも、望みのままだ。どんな高圧的な態度に出られても、摩央は文句を言える立場にない。
 約束の時間を大幅に過ぎているのだから、催促や怒りの連絡のひとつやふたつがあってもおかしくない――いや、ないほうがおかしいのだ。
 ――どういうつもり?
 高田が約束を忘れているはずはないが、かといって、こちらからわざわざ連絡をするのもごめんだ。
 不満があるのなら必ず連絡してくるだろう。それにどのみち、月曜には顔を合わせることになる。数学の授業があるのだから。


◆◇◆


 父も母も、今夜は帰りが遅いらしい。そのかわり明日は久し振りの休暇になるという。親子3人で銀座あたりへ、食事やショッピングに出かけることになるだろう。
 摩央に急な用事が入ったとしても、だ。

 相変わらず食欲はなかった。
 夕食は摩央ひとりで食べた。広々としたダイニングでひとり、食事に舌鼓を打つことには慣れている。しかしそのいつもの沈黙の中、いつ携帯の電子音が鳴り響くかわかったものではなかった。高田からいつ連絡が来てもいいように、摩央は夕食時もポケットに携帯を忍ばせていたのだ。
 今夜は、何とも消化によさそうな献立だった。鶏ささ身のシーザーサラダ、ナスと白身魚のゼリー寄せ、コンソメスープ。自家製のライ麦パン。
 どれも味つけは薄く、ぼんやり考えごとをしながら食べていると、飲み下した端から味を忘れてしまうほどだった。
 けれどもこの淡白さは、優しさなのだ。冷淡ではない。無関心でもない。
 自分は家族や使用人から愛されている、と摩央は事実を受け止めた。そして自分は、この優しさを裏切っているのだ、とも。

 摩央のポケットの中で、携帯が震えた。音を切っていたのが正解だったようだ。ダイニングはあまりに静かすぎた。無音の震動でも、摩央はひとり、充分に肝を潰したが。
 摩央は息さえ殺して、携帯を確認した。
 しかし、高田からの打診ではないことは何となくわかっていた。察しのとおり、震動は友人からのメールを知らせるものであった。

 差出人:長谷川さん
 件名:事件ですよ


 長谷川とは、長谷川聖那子(はせがわみなこ)のことだ。摩央のクラスメイトだった。
 摩央が広く浅く付き合っている友人たちの中のひとりで、父親がマスコミ関連の仕事に就いているという。そのためなのか、彼女は非常に耳ざとく、世間、近所、校内を問わず、情報収集力に長けていた。父親を通じて情報を得ているのではない。彼女自身が活発に動き回り、情報を自ら手に入れているのだ。普段からそうして動いていれば、しばしば情報のほうから彼女に飛び込んでいくようになる。
 血筋が成せる業なのだろうと、摩央は考えている。口が軽いのは聖那子の明らかな欠点だが、悪い人間ではない。
 聖那子はこうして、いつも楔果女学院の情報の発信源だった。比良丘素子の失踪のときも、香田美遊の自殺のときも、彼女が初めに話を聞きつけ、友人たちにメールを回してきたものだった。
 今度は、何を掴んだのだろう。
 まさか、自分と高田の取引のことだろうか……。
「まさか」
 食事を終えて、摩央はメールを廊下で確認した。
 彼女は、我が目を疑った。

 差出人:長谷川さん
 件名:事件ですよ
 本文:
 安笠さん、大変ですよ。数学の高田先生が亡くなったそうです。
 詳しいことはまだわかりませんが、事故やご病気ではないとのことです。
 事件なんですよ。殺害されたんです・・・
 どうしてこう、血なまぐさいことばかり起きるのかしら・・・



◆◇◆


 窓の向こうの御樹が笑っている。
 それとも、ただ、風が吹いているだけだろうか。


◆◇◆


 摩央は自室のドアを開けて、それきり硬直した。
 確かに閉めたはずの窓が開いている。カーテンが揺れ、御樹の葉が笑っていた。冷たい夜風が、ざらり、と摩央の頬を撫でていく。
 窓の下に落ちているものを見て、摩央は携帯を取り落とし、へなへなと崩れ落ちた。悲鳴は喉に張り付き、出てこようとしない。
「……ぃ…………ぃ……ぁ…………」
 いやあ、と叫ぼうとしたのかもしれない。
 目をそむけようと、目蓋を閉ざそうとしたのかもしれない。
 けれど、何もできなかった。
 摩央は、窓の下に転がっているふたつの男の手首を、無理やり見せつけられていた。

 手首はどうやら、父と同じくらいの年齢の男のものであるようだ。まだ切り落とされて間もないのか、死んでいたが、生々しかった。血が流れていないのは、血を抜いてからそこに放置したためか。

 突然、学習机の上で音が起き、摩央は飛び上がった。ひいっ、と息を呑む音が自分の中に響く。
 摩央を驚かせたのは、携帯電話がバイブ機能で震える音だった。摩央の携帯は、彼女のそばに落ちている。
 摩央はやっとのことで立ち上がり、机に近づいた。携帯電話はまだ細かく震え続けていた。着信ランプが赤く光り、明かりのない摩央の部屋の一角を、不吉な色で照らしている。
 青い携帯電話だった。見覚えはあるが、摩央のものではないし、家族のものでもない。
 震える手で、摩央は携帯を取った。
 非通知の相手から電話がかかってきているようだ。誰のものなのかわからない携帯で、誰なのかもわからない相手と応対する気になどならない。摩央は反射的に、電源ボタンを2度押して、着信を断ち切っていた。
 断ち切ったと同時に、彼女は今度こそ確かな悲鳴を上げて、手にしていた携帯を派手に落としていた。
 待ち受け画面に設定されていたのは、血まみれの男の顔をアップでとらえた写真だった。携帯のカメラ機能で撮ったものに違いない。
 生きているのか死んでいるのか定かではない血まみれの男は、数学教諭の高田の顔をしていた。血にまみれた顔の中に、恐怖と苦痛と死が浮かび上がっていた。
「あアアアああぁ! ああああああァァア! あーッ、ああああ、ぅわあァああああアあ!」
 声の限りに叫びながら、摩央は何も持たず、部屋を飛び出した。
 何事かと駆けつけてきた使用人や恵津子を押しのけ、物凄い勢いで家から飛び出す。
 御樹が笑っている。
 摩央は狂乱のままに走り続けた。どこへ行くつもりなのか、どこに行けばいいのか、わからないまま走り続けた。夜の闇がどこまでも広がっていた。御樹がその黒い枝葉で、道を、街を、東京を日本を世界をこの世を覆い隠している。
 御樹が笑っていた。


◆◇◆


 高田直人は自宅で殺害されたと見られる。
 世田谷区。二階建ての借家住まい。46歳、独身。
 とりあえず、失血死であるようだ。
「こりゃ拷問だな」
 捜査1課の嘉島がそう唸って、死体の傍らにしゃがみこんだ。彼は、どこからどう見てもくたびれた中年という、外見は冴えない男だった。スーツは安物だし、ネクタイは曲がっているし、安い煙草の匂いを薄く纏っている。
 しかし、視線は鋭かった。強い意志と、死と血にも動じない胆力が感じられる。その目でもって、嘉島は無残な高田の死体をつぶさに観察していた。
 高田は壁のそばで倒れていた。壁にはべっとりと血糊がつき、生々しい飛沫と、まっすぐに床に伸びる軌跡を描いていた。
 高田の身体からは、両手首から先が奪われていた。切れ味の悪い刃物で粗雑に切り落とされている。
 隣人が、男の凄まじい悲鳴を聞いて警察に通報した。悲鳴は高田のものだったと見て間違いないだろう。
 死骸と化した高田の顔には恐怖と苦痛がありありと浮かび、死んだあとも悲鳴を上げ続けているのだ。
 彼が『殺害された』のは明白だ。まかり間違っても自殺などではないし、事故でもなさそうだ。度が過ぎた拷問によって死んでしまったか、じわじわと嬲り殺しにされたか、そのどちらかだ。どちらにせよ、犯人は高田にあまりいい印象を持っていなかったか、同じ人間だとは思っていなかったか――ともかく、残虐な存在だろう。
 手首を切り落とし、逆さにして天井から吊るし、身動きが取れないところを鈍器でめった打ちにしている。
 そればかりか、切り傷も身体のあちこちについていた。しかしどの傷も、致命傷ではないようだ。傷は恐らく、高田を苦しめるためにつけられた。あるいは、屠殺した家畜のように、血を抜くためだったか――。
 今のところ、すべては憶測だ。
 真実を知るには、検死の結果を待ち、この部屋に焼きついた恐るべき犯罪の痕跡を証拠としてかき集め、糸を少しずつ手繰り寄せていくしかない。
 もちろん、犯人がすぐに名乗りを上げてくれたら、真実はもっと簡単に日の目を見るだろうが。
「――そうは行かないンだよなあ」
 くたびれた刑事は深い深い溜息をつき、手帳を取り出して、犯行現場に散らばったヒントを書き留め始めた。
「嘉島さーん」
「おーう」
 足早に現れた若い刑事――根竹和美(ねたけかずみ)という、女のような名前のキャリア組だ――に、嘉島は手帳から目を離さず、間延びした返事をした。
「ケータイないんですよ、ケータイ」
「なーにやってんだ、商売道具だろ」
「違いますよ、ガイシャのケータイです。ガイシャの知り合いが急用で2時間前からずっとかけ続けてたそうなんですが――」
「おれァ1時間前からずっとここにいるがなァ」
「聞いてないでしょう、着メロもバイブの音も。僕もです」
「真面目に探してんのか」
「探してますよ!」
「……犯人が持ってったのかもしれん。GPS機能は?」
「結構新しいケータイだったらしいんで、ついてるかもしれませんね。電話会社当たってみます」
「あー、頼んだ」
 2人の刑事は、互いの顔を見もしていない。それぞれ、自分の手帳を睨み、書き込んでいる。
「……どんなヤツなんでしょうかね、犯人。4課のほうだったりして」
「どうだろうなァ」
 4課の管轄と言えば、暴力団だ。
 しかし暴対法が施行されてから暴力団はあからさまに暴力を振るうことを控えるようになり、残虐で向こう見ずな事件を起こすのはヤクザだという考え方は少しずつ風化し始めている。
 最近はむしろ、「大人しくて、目立たない人」が目を見張るような凶行に走るようになった。時代は少しずつだが確実に移り変わっていくものだ。
 若い根竹の呟きはただの冗談であり、冗談と受け止めた嘉島の返事は、完璧な生返事だった。
「ケータイ……」
「はい」
「着信と発信、両方調べてみるか」
「はい」
 根竹が手帳のページをめくりながら答えた。彼はページを飛ばしてメモを取ることが多い。高田に関する記述の隣には、2ヶ月前の殺人事件についての情報が書き連ねられていた。それは嘉島の癖でもあった。先輩の悪癖まで、そのまま後輩に受け継がれてしまったのだ。
 高田の情報を探し当てた根竹が、眉を寄せる。
「このガイシャ、教師でしたね。ええと……」
「ああ。お嬢様学校のな」
「楔果女学院。はー、名門だ。でも、ここって……」
「ああ。妙な学校だよ。呪われてるって噂だ」
「つい最近生徒が自殺してましたね」
「失踪もしてる。……その線も当たってみるか」
 嘉島は手帳を閉じ、根竹を見る。根竹の目が、妙な光を放っていた。きらきら輝いている、と言うべきか。
「勘ですね、嘉島さん! 臭いますか、この事件! 嘉島さんの勘って当たるからなー!」
「なに喜んでんだ。人が死んでるんだぞ。――ここはもういい。ホトケさんを運び出せ」
「はいッ!」
 現場に閃くフラッシュは、もうすでに途絶えて久しい。恐怖に彩られた死体の顔から、嘉島は目をそむけた。
 こんな死に方はしたくないものだ。
 捜査1課で働いていると、1年のうちに、何度もそう考えるはめになる。けれども、とりわけ、この高田のような死に方はごめんだ。
 嘉島は正しく生きているつもりだが、こうした惨死を遂げるのは往々にして罪もないまっとうな人間である。自分もいつ犠牲者になるかわからない。別にこれは、最近日本も物騒になってきたから、ということではないのだ。
 生きとし生けるものは全て、常に死に脅かされている。犯罪はずっと昔からあった。残虐な方法で人を殺す人間も、最近になって現れ始めたわけではない。
 嘉島の身体が、出し抜けに戦慄を覚えた。
 勘によれば、高田は生きているうちに手首を切断されている。
 嘉島はまた溜息をつく。
 捜査に次ぐ捜査でぎっしりと煮詰められた彼の刑事人生が、鋭い勘を育んだ。キャリア組の根竹は、その勘に憧れて、半ば超能力と見なしている節がある。
 いや、根竹のことはいいのだ。そのうち現実に気づき、彼にも徐々に備わっていくものだろうから。
 嘉島が溜息をついたのは、黒々とした不愉快な未来を、勘が探り当ててしまったからだった。
 この事件は、きっと解決しない。
 解決するとしても、それには途方もない時間と労力を犠牲にする必要がある――。
 根拠はないのだ。
 ただの、初老の刑事の勘だった。