
甘い香りの眠りから覚めた摩央は、馬車の中で揺られていた。〈新月宴〉の会場に向かっているのは明らかだった。
奇妙なほど、気分が落ち着いている。心臓はゆっくりと打ち、呼吸は眠っているときのようにゆるやかだ。
聞き慣れない、蹄の音。
摩央の視界に、向かいの席に足を組んで座っている哭帥の姿が入った。彼はずっと摩央を見つめていたのかもしれない――摩央は、すぐに彼と目が合った。
「覚めたな」
「――ええ」
哭帥が摩央の向かいの席に座って、目覚めた摩央に、いろいろと話して聞かせてくる。
彼は、嬉しそうだった。
椏人の庇護下にある人間の一族の証は、『樹』を崇めているということ――安笠家の証は、庭の御樹だ。あれは、哭帥の尾だという。
「人間も釣りをするだろう」
哭帥は笑って語った。
「あれと同じだ。尾を折り、植える。暗黒と水を糧に、尾は根を張り、枝を伸ばし、樹となる。根を張った尾が見聞きするものは、その尾の持ち主であった椏人にも伝わる。すべての生物の頂点に位置する樹だ。霹靂を浴びようが滅びることはない。やがてその生命力に神とやらを見出す人間が出てくる。あとはその人間に声を聞かせ、庇護の契りを交わすだけだ」
尾を通じて、哭帥は安笠家の一族をずっと見守ってきた。餌にかかった人間を、彼は逃さなかった。安笠の血筋を戦火からも護り、その代償に、目をつけた安笠の肉を刈り取っていったのだ。
繁栄とその陰に起きる失踪の真実を知る者は、もういない。摩央の曾祖母は薄々と哭帥の存在に感づいていたようだが、もう、死んでしまった。
「あの雌――ああいや、あの女には、気まぐれで姿を見せてやったのだ。女は神がかりの中で夢を見たと思ったようだったな」
どうしてそんなことを、と摩央は聞こうとして、やめておいた。
気まぐれで、と哭帥は断りを入れている。
それに――曾祖母が若い頃の白黒写真を見たことがあったが、若き曾祖母は、とても美しかったようだった。摩央に、よく似ていたのだ。
椏人にも『好み』があるらしい。
話の合間に、摩央は自分が身につけているものを確かめた。今彼女が着ているのは、眠りにつく前に着ていたドレスとまったく違うものだった。
またしても、着替えさせられたのだろう。摩央が眠っている間に、お色直しというわけだ。
哭帥も、タキシードから燕尾服に着替えていた。
しかし、俗に燕尾服がホワイト・タイと呼ばれている所以であるはずの、白い蝶ネクタイが襟にない。略式の、濃緑のクロスタイが留められている。ポケットチーフまで緑だ。そもそもシャツが、漆黒だった。
「タイとシャツ、変よ」
「なに?」
哭帥の身なりをまじまじと見つめながら、摩央が口を開くと、哭帥は少し驚いたように訊き返してきた。
「タイとシャツ、それでいいの? ちゃんとしたパーティーに出席するなら、白いシャツに白い蝶ネクタイをしなくちゃ。人間はそうするんだけど」
「蝶タイも白も好かぬ」
「駄目よ、哭帥さま。それじゃ嫌われる」
「余は、好かぬ、と言っている」
「燕尾服にクロスタイは変。非常識よ」
「……」
哭帥は無言で摩央を睨みつけた。恨めしげでもあり、腹立たしげでもある形相だった。心なしか、翠の目に宿る光が強くなったようだ。
摩央が哭帥に押し付けている常識は、人間社会のものだった。しかし、哭帥の反論から察するに、椏人も燕尾服を着れば白いシャツを着て、白い蝶ネクタイを締めるものなのだろう。
摩央のドレスは、豪奢なフリルの黒いイブニングドレスだったが、胸元や肩が広がっていない。手首まできっちりと黒の布地で覆い隠され、手にも黒いレースの手袋が嵌められていた。
おまけに、大仰なマリアヴェールを被せられている。色は、やはり黒だった。ヴェールの端では、蔦か蔓のデザインが渦を巻いている。
黒い花嫁だ。非常識だった。
燕尾服にクロスタイの男の連れが、黒色の花嫁とは。
馬車の窓からは、闇しか見えない。
椏人の尾は闇と水で育つと、哭帥は語った。闇を喰う椏人は、闇を好むものなのだろう。黒は、ひょっとすると彼らにとって、煌びやかで清らかな色なのかもしれない。
「馬車、なのね」
「問題か」
「いえ。乗るの、初めてだったから。車……自動車は、使わないの?」
「揮発油で走るあのからくりか。あれはいたずらに自然を汚す愚かな乗物だ。人畜生どもはみな狂っている」
「そうね。狂ってる」
ヴェールの奥で摩央がそっと微笑むと、哭帥が眉を吊り上げた。それから、摩央に合わせて、微笑んだ。
◆◇◆
柘紋の館は明治や大正を思わせる古びた洋館だった。
どことも知れない森の中に、ひっそりとこの一軒だけが佇んでいる。鬱蒼と枝を伸ばした木々が、館を包みこんでいるのだ。
夜の闇の中に作られた影の中から、ぼんやりと薄い緑の明かりが漏れてきている。
聞こえてくるのは、しんしんとした虫の鳴き声だけだ。館からは何の物音も聞こえない。だが――何か得体の知れないものの気配がしてくる。摩央は、ぞうっと背筋を駆け上がる悪寒に、ひたすら耐えるしかなかった。
誰も自分を助けてくれない。哭帥をそう簡単に信頼できるはずもなかった。彼は尾と翠の目を持つ人外だ。おまけに、人喰いである。これ以上ないくらいに信用できない同伴者だった。
しかし、摩央の不安や悪寒など素知らぬふうで、ゆらゆらと尾を揺らしながら、哭帥は手を差し出した。
笑っている。
摩央は顔を強張らせながらも、その手を取った。
哭帥は摩央と腕を組み、館の入口に向かって歩きだす。
俯いていた摩央は、自分たちが進むに従って、生い茂った草花がひとりでに傾ぎ、道を開けていくのを見たのだった。
◆◇◆
ダンスホールにたちまち充満したざわめきは、明らかに、森で聞こえる枝ずれの音だった。
ざばわざばわと、森がここで、囁きあっている。摩央と哭帥に鋭い視線を突き刺しながら。
「何も言うな。何も食うな」
哭帥は摩央にそっと耳打ちし、あとは、余裕の笑みを浮かべて立っているだけだった。
椏人だ。
多くが翠の目を持ち、尾を揺らしている。女は裾の長いドレスの下に隠しているのか、男よりも尾が目立たない。しかし、1歩も動いていないのに、ドレスの裾がゆらゆらと揺れており、尾の存在が窺える。
摩央はヴェールの奥から椏人たちをちらりちらりと観察していた。椏人たちも、半ば摩央を睨むようにして観察している。
血統の違いによるものなのかどうかはわからないが、どうやら椏人の目の色には翠と薄紅の2色があるようだ。翠が圧倒的に多い。摩央は始め、女が薄紅の目を持っているのかと思ったが、そうではなかった。
顔立ちは馴染み深い、東洋系のものがほとんどだった。彫りの深い、欧米人然とした顔立ちの椏人は、肌の色も心なしか白いし、体格もいい。だが、顔立ちが東洋のものか西洋のものかにかかわらず、椏人は皆顔が小さく、手足が長かった。人間の世に生きているものであれば、皆モデルになれるかもしれない。
男は黒の燕尾服で――しっかり白のシャツを着て、白の蝶ネクタイをしていた――女は、黒や臙脂、濃緑のイブニングドレス姿だった。
絨毯も人々も、暗色の中にある。
美しいクリスタルのシャンデリアが放っているのは、薄い緑がかった光だった。やはり、ゴルフボール大の苔玉が光を放っている。火を嫌い、電気も利用しない彼らにとっては、あの苔玉が闇を照らす手段なのか。
ざわわわ……、ざばばばば……、
ざざざざざざ…………。
摩央は、点在する丸テーブルから目をそむけた。
肉料理ばかりが並んでいるのだ。
ビリジアンのテーブルクロスの上に、果物の盛り合わせと、赤身の肉の刺身を見た気がした。哭帥に言われずとも、食べる気など起こらない。
椏人たちは不快感を露わにしていた。女は羽根飾りのついた扇子で鼻と口を庇っている。彼らには、臭いで摩央が人間であることがわかっているらしかった。
そして、彼らにとってその臭いは、あまり気持ちのいいものではないらしい。いつも清潔を心がけていたのに臭いを嫌われ、摩央の年頃の心が少し傷ついた。
ヴェールの奥からそっと窺ってみれば、哭帥は上機嫌で笑っていた。
しかし、にこにこしているのではない。にやにやしている。この境遇を、楽しんでいる。
「哭帥!」
「柘紋」
会場の奥から長身な椏人が現れ、凄まじい形相で哭帥に迫った。哭帥はにやにやしたまま、彼の名を口にした。
柘紋、と呼ばれたからには、この長身な椏人が今夜の宴の主宰なのだろう。
哭帥よりも年を取っているようだった。人間で言えば、60代に差し掛かっているだろうか。豊かな口髭をたくわえ、長い髪をうなじのあたりでくくっていた。
「ついに狂ったか! これは、人畜生ではないか!」
「如何にも。余の妃だ」
ざわめきが爆発した。柘紋は翠の目を見開いて1歩後ろによろめき、会場の椏人たちが戸惑いと驚きの声を上げている。
森が、暴風に弄ばれ、悲鳴を上げているようだ。
最早ざわめきは消え、非難の嵐が沸き起こっている。多くが、信じられない、と言っていた。罵詈雑言の類があまり目立たないのは、彼らが紳士と淑女であるからか。
それとも――哭帥が怖いのか。
「柘紋。これで合点が行くな?」
「な、何を言う」
「余が何も知らぬと思うな。あらぬ風聞に不愉快な思いをしているのは、何もそちや奥方ばかりではない。そちとは志を同じくする派閥ゆえ、これまで沈黙を守ってやったが、この場ではっきりと言わせてもらおう!」
唐突だった。
哭帥は翠の目にぎらりと怒りを閃かせ、柘紋の後ろに立っている和装の婦人を、恐ろしい視線で射抜いたのだ。
黒地に蔦と薊の刺繍が入った留袖を着ている。瞳が、薄紅色だった。
「夫人! 余はこのとおり、そちに割く情愛のゆとりなぞ持ち合わせてはおらぬのだ。花が咲いたのならば、余ではなく柘紋に捧げるが良い。昼にも夜にも口説かれては、こちらもかなわぬ。伴侶ある身が、恥を知れ!」
「おお!」
哭帥の言葉を震えながら受けていた和装の夫人が、その叫び声と共に倒れた。
会場のあちらこちらから、黄色い悲鳴が上がる。夫人を誰よりも早く抱き起こしたのは、血相を変えて駆け寄った柘紋だった。
「あ、あなた! 嘘です! みんな嘘です! ああッ――聞かないで! 何も聞かないでッ!」
夫人は号泣し始めた。その顔を呆然と見つめたあと、さっと柘紋が哭帥に顔を向ける。その顔には、屈辱に対する凄まじい怒りが噴き上がり、修羅のような形相になっていた。
彼は摩央を連れて現れた哭帥を迎えた時点でかなり怒っていたが、そのときの怒りも遠く霞むほどの憤怒だ。
「……哭帥、……貴様! これが派閥を同じくする者に対しての仕打ちか!」
「ほう、柘紋。人畜生に愛を捧ぐ気狂いに、何を怒るのだ。斯様な目出度き席で暴を振るえば、誇りが泣くぞ。椏人の誇りがな」
「黙れ! 人畜生を妃になどとほざく貴様に、何の誇りがあるものか。儂に恥をかかせおって。貴様の枝を全て落としてくれようぞ!」
泣き崩れる妻から離れ、憤怒の形相で柘紋が哭帥の前に立ち塞がる。
摩央は大勢の椏人同様、唖然として2人の紳士のやり取りを見守っているだけだった。
「やはり貴様に誇りを問うが誤りか。それでは、派閥の鞍替えも合点がゆくと云うものだ……いや、余が、それを咎められる分際と云うわけでもないが――」
哭帥の口元から、笑みがふと消えた。
空気が――風が、時間が、止まったようだった。
ひょう、と哭帥の尾が、止まった世界を切り裂いた。
「面白い、柘紋。勝負ならば受けて立つぞ」
彼の囁きは、囁きだというのに、ホール全体に響き渡った。
「この、下郎が」
柘紋も哭帥も、紳士であった。
宴の席で殴り合いを始めるでもなく、剣や銃の決闘で決着をつけようとするでもなく、柘紋が哭帥から先に目をそむけることで、一触即発の事態は幕を閉じた。
柘紋は額にびっしりと汗を浮かべ、肩で息をしていた。
「腰抜けめ!」
哭帥は鋭く罵ったあと、溜息をつき、柘紋から顔をそむけた。汚れたものから目をそらしたかのような素振りだ。
彼はふうっと柔らかい笑みを摩央に向け、後ろ手を組んで踵を返す。
「さ、帰るとするか、マオ」
「えっ――、……ええ……でも……」
「用は済んだ。余がここに居る必要はない。余の屋敷で牛を食うのはどうだ」
「そっ……ええ……それは……い、いい考えね……」
「そうか、そちもそう思うか。余はこのように、常に正しい」
ふん、と大きく鼻で息をつき、哭帥は歩きだした。堂々たる足取りだ。口元には満足げな笑みがある。
ヴェールをひるがえし、摩央は哭帥の後を追った。視線は館を出るその瞬間まで、蔦のように絡みついてきていた。
◆◇◆
帰りの馬車で、哭帥はにやにやしながら摩央に説明した。実に嬉しそうで、晴れ晴れとした表情だ。
哭帥は、柘紋夫人にしつこく付きまとわれていたらしい。しかし話を聞く限り、夫人が夫ではなく哭帥に熱を上げてしまった原因は、どうも哭帥にあるようだった。
哭帥は、あるとき気まぐれで夫人の美貌を褒めたのだ。
「時期が悪かったようだ。夫人は花が咲いていた」
「花が……どこに?」
「おお、話してはいなかったか。これは椏人の間の隠語だ。我らには――そう――獣で言う、発情期があるのだが――」
「もしかして、目が桜色になったりする?」
「然り! そちは真に賢明だ。観察眼もある。目の翠が薄紅に染まるとき、我ら椏人は実を生そうとするのだ。若いうちは数年に1度咲くものだが、年を経ると20数年に1度咲けば良い方になる。――夫人のうなじが、美しかった。あくまで後ろ姿を褒めたのだ。振り向いた夫人の目を見た余の驚愕と焦燥を察するが良い」
「……わたしを、フるためのダシにしたのね」
ヴェールの奥で摩央が意地の悪い笑みを浮かべると、哭帥が目を見開き、身を乗り出した。
「何を言うか!」
「『他に好きな人ができたから』っていう断り方、人間もよく使うの。利用するのに使ったら、やっぱりわたしを喰べるのね?」
「……そちはどこまで余を疑るのだ」
「……」
困った顔で、哭帥は溜息をついた。少し苛ついているような溜息だ。摩央は笑みを消し、人形のような硬い表情で、ちらと車窓に目をやった。
闇があるばかりだ。ガラスには、青褪めた自分の顔が映っている。哭帥の、整った横顔も映りこんでいた。彼は摩央を、まっすぐに見つめているようだ。
「テーブルの上にあったお刺身、人間の肉なんでしょうね」
呆然とした、絶望的な摩央の言葉に、
「そうだ」
哭帥が囁くようにして応えた。
「椏人は人肉で客をもてなす。人間の肉は、高級品だ。特に、庇護下に置いていたものは」
「美味しい?」
「料理人の腕にもよるが、……大概の椏人の好物だ。特に唐揚げが美味い」
「わたしは、美味しそう?」
「……」
重い沈黙が下りた。
哭帥と摩央は、じっと見つめ合っていた。
やがて哭帥がそっと手を伸ばし、摩央のヴェールに触れた。摩央は固唾を呑んだが、気丈に、眉のひと筋も動かなかった。
哭帥の手が、薄いヴェールを掻き分ける。摩央の視界に、淡い緑の光がさした。
「さて……どう答えたものか……」
そう呟いて、哭帥は笑った。
馬車が停まり、ここで初めて、摩央は哭帥の屋敷の外観を目にした。柘紋の館のように、木々と闇に護られていた。
主なき館は暗く沈黙していたが、哭帥が馬車からひらりと降りると、門灯が淡い緑の光を放った。門灯に遅れること数秒で、窓という窓の向こう側が音もなく明るくなった。回廊に取り付けられた、あの不思議なランプが灯ったのだろう。
「哭帥さま。あなたは、ここにひとりで暮らしているの?」
「下僕の木偶がいる」
摩央の疑問に哭帥が答える。その『答え』が、馬車の御者席から降りた。また、屋敷の大扉を開けて、出迎えにきた。
服こそ着ていたが、哭帥の召使いたちは、椏人でも人間でも獣でもなかった。木製の、球体関節人形だ。
皆顔立ちは中性的に整っていたが、それはマネキンのような、造られた美貌だった。そして、眼球と唇が動くだけで、頬はぴくりとも動いていない。
「おかえりなさいませ」
合唱団のコーラスのようだ。かくりと腰を折って頭を下げる仕種も、挨拶も、完璧に揃っていた。声は多くのものであるはずだが、ひとつのものに聞こえた。
出迎えに来た召使いは、全部で8人。漆黒の、古い給仕服を着ている。御者も、召使いと全く同じ顔と身体つきだ。召使いの給仕服は女物だが、恐らくかれらに性別などはないのだろう。
そして、心もないのだろう。
椏人がどのようにしてかれら『木偶』を生み出しているのか、その方法はどうでもよかった。人形が動き、ものを話している時点で、人間である摩央にとっては未知の力が働いていることが明白だ。
「――ひとりで、暮らしているのね」
「ふん。まあ、そう捉えることもできよう」
「どのくらい、ひとりで?」
「友くらいは持っているぞ」
「ごまかさないで。ずっとひとりなの? 837歳だって言ってたけど、まさか――」
「400年」
仕方なさげに、哭帥は短く答えた。正直なのか、それとも、生まれてからずっと独り身であるという勘違いをされたくなかったか。
答えた哭帥は、摩央の顔も見ずに扉へ向かっていった。
「400年――」
呆然と呟いた摩央は、木偶の召使いを見た。
かれらの目は、どうやら、ガラスでできているらしい。瞳の色は、薄紅だった。椏人の花の色だった。
下僕は何も話さない。挨拶をするだけだ。
屋敷は静かだった。屋敷そのものが、哭帥を畏れて口をつぐんでいるかのようだ。
哭帥はその沈黙を愛しているのだろうか。それとも、ただ単に慣れてしまったのか。彼はマントルピースがある部屋で足を止めた。
たったひとりで、哭帥はティーポットを手にしている。すでに木偶が茶葉と湯を入れていたのだろう、哭帥は慣れた手つきで、カップに紅茶を注いだ。ポットを持ち上げ、高みから茶を落とす。
しかし、何百年もひとりで淹れ続けた成果か、飛沫が散ることはなかった。英国人の執事のように、巧みな技だ。
哭帥はうっすらと笑っている。彼は、ティーカップをもうひとつ、手に取った。
揃いのカップが二つ、用意されていたのだ。
「哭帥!」
摩央は彼を呼び捨てた。
けれども、摩央に顔を向けた哭帥は、それを咎めるどころか、嬉しそうに笑みを大きくしたのである。
「なんだ」
「もうひとつわがままを聞いて。聞いてくれたら、本当に――わたしはあなたのものになるから。嘘はつかない。本当よ」
芳しい香りと音を立て、哭帥の手によって、摩央のカップに紅茶が注がれる。
哭帥は無言だ。だが、促している。
摩央のわがままを待っている。
「わたしと暮らすなら、人間を喰べるのをやめてちょうだい」
ポットからカップを繋ぐ紅色の奔流が、わずかばかり乱れた。飛沫が上がり、数的の雫がソーサーを汚す。
哭帥が一瞬目を見開いたのを、摩央は見逃さない。彼は余程人肉が好きなのか、それとも、椏人は人肉を食べなければ生きていけないのか――摩央が付け足した婚姻の条件は、哭帥にとって深刻な問題であるようだった。
しかし、哭帥は、摩央がそう考えた次の瞬間、また微笑んだのである。
楽しげだった。
「良かろう。そちの為に人肉食を断つ」
摩央のわがままを聞くのが嬉しいとでも思っているのだろうか。ゲームをしているつもりなのかもしれない。あの余裕の笑みは、どんな札を手にしている証なのだろうか。
摩央が生きた何十倍もの年を重ねている男だ。どんな詭弁もどんな方便も、この男には通用しないのだろう。
「――疲れた」
摩央は自分にしか聞こえないほど小さな声で呟いた。しかし、椏人は耳がいいのか、哭帥がさっと顔を上げた。
「左様か。すぐに湯と寝床の用意をさせよう」
「今日は帰してくれないのね。――明日は、学校なのに」
「そちを紹介したい者がいる。柘紋の館では見かけなんだ。馬車で2時間ばかり東に進んだ山に住んでいるのだ。膾ばかり喰う男だが、人間を左程卑しむ性分ではない。我らの間では変わり者で通っておる。もうじき齢630を数えると言うに、これまでただのひとりも女を持ったことがないと嘯く男だ。……余の数少ない友のひとりだ、会ってやってはくれまいか。それが済めば、一度畜生界に戻してやる」
「……明日、帰してくれるのね」
「無論だ。だが、今そちは疲れている。畜生……もとい、人間は1日に7、8時間眠らねばならないものなのだろう。今は休め」
哭帥は猫のようにしなやかに動き、摩央に紅茶のカップを差し出した。
花の香りが混じった紅茶の香りに、思わず摩央は心を許した。紅茶に何を入れられているのかわからない――そんな疑念も、疲れと香りが取り払っていく。摩央はカップを受け取って、1口飲んだ。温かかった。
「……美味しい」
摩央の素直な一言に、哭帥が微笑んだ。
◆◇◆
哭帥が顎で軽く指図をしただけで、木偶の下僕は摩央を部屋まで案内し、ランプをつけ、風呂と着替えを用意した。無駄のない動きだったが、下僕が動くたびに、木が軋むような音がする。球体の関節が呟いているのだろう。
「明るいと眠れなくて。このランプ、どうやって消すの?」
使い方を教えろ、というのは命令だ。この木偶は哭帥ではない人物の命令も聞くのだろうかと摩央は心配したが、それも徒労に終わった。下僕はきしりと腕を上げ、ランプの蓋を指差した。
「ふたをしてください」
「それだけ?」
「はい。ただしごちゅういください。いちどけすともうつきません。なかのこけをとりかえるひつようがあります」
「わかった。気をつける」
「おふろのおはなはそのままにしてくださってけっこうです」
召使いはにこりともしなかったが、ドアのそばで振り向き、かくりと腰を折って摩央にお辞儀をした。
「おやすみなさいませ」
「……ありがとう。おやすみなさい」
おやすみ、と言ってはみたものの、かれらはきっと休むまい。休む必要など、ないのだろう。
見慣れぬ部屋の中に、安笠摩央はひとり、残された。
部屋は綺麗に片づけられ、ベッドも整えられている。塵ひとつ落ちていないが、少しだけ、埃の臭いが残っているようだった。
長い間、誰に使われることもなかった部屋なのだろう。長い間。気が遠くなるほど、永い間――。
孤独がこの部屋に染みついているのだ。
微かに残る埃の臭いは、孤独の香りだ。
摩央は丈夫そうなベッドに近づいた。素材はオークだろうか。古いものには、違いない。
軽く乗せただけの手が、音もなく、もふりと布団の中に沈んだ。相当に上質な羽毛を使っている。
年代ものの、豪奢な調度品で彩られた室内を、摩央は無言で歩きまわり、ゆっくりと鑑賞した。哭帥は、永遠に自分をこの部屋に閉じ込めておくつもりかもしれない――。
――そうなったら、何も今、じっくり見てまわる必要なんかない。嫌でも見ることになる。見ることしかできなくなるのよ。
哭帥は、この屋敷に400年住んでいると言った。彼は400年もの間、ずっとこの屋敷で、ずっと同じ光景を見続けてきたのだろうか。模様替えをしようと思ったことはあるのだろうか。
飽きたり、嫌になったり、どこか新しいところへ行きたいと思ったりは、しなかったのだろうか。
椏人にとっての400年は、人間にとって、どれほどの月日に値するのだろう。
摩央は軽くかぶりを振った。次から次へと浮かび上がってくる疑問に答えてくれる者はどこにもいない。
哭帥に問いただしてみても、彼はきっと、すべてに答えてはくれないだろう。彼はプライドが高そうだ。孤独については話さないに違いない。
部屋には、出入り口の他に、もうひとつドアがあった。真鍮のノブがついている。
摩央はそのドアを開けた。
孤独の香りが、たちまち、花とハーブの香りに駆逐されていった。
真鍮のノブのドアは、バスルームに続いているものだった。欧米の家屋やホテルで見られるように、便器や洗面台も設置されている。しかし――ユニットバス、という言葉がどうにも不釣合いな優美さだった。
バスタブの中と周囲は、花で埋められていた。花だ。花。花――ハーブ、花。緑。
花で水面を覆われた湯の中に、摩央は手を入れた。哭帥が淹れた紅茶のように、適度な温かさだ。洗面台の上に、黒いレースのネグリジェと、緑色のバスタオルが用意されている。
摩央は少し窮屈なイブニングドレスを脱いで、花の中に――バスタブの中に、身体を沈めた。
「…………」
涙が出てきた。
黒い長い髪に、優しく、ハーブと花びらが絡みつく。喉の奥から、絡みついた嗚咽が漏れてくる。摩央はハーブと花びらが張り付いた腕を上げて、顔を覆った。
「帰りたい……」
涙が止まらない。
「帰して……」
寂しいのだ。
「怖いよ……!」
誰もいない。
「嫌だよう……ッ!」
煙草は吸ったけれど、まだ、恋をしたことがなかった。
