夢すら現れない眠りから覚め、摩央は目を開けた。
 分厚いカーテンが窓を塞いでいる。余程遮光度が高いのだろう。室内はまるで黄昏時のように暗かった。
 しかし、窓の向こうから野鳥の囀りが聞こえてくるし、空気はしっとりと冷えているから、今が朝であるのは間違いなさそうだ。
 花とハーブと湯の中で、摩央は昨夜、長い間泣いていた。目が痛いし、目蓋が重い。
 眠れる自信はなかったが、結果的に彼女は眠った。泥のように。夢も見ずに。
 湯に入れられていたハーブの香りが、彼女を眠りの中に(いざな)ったのかもしれない。そして、羽毛布団は軽く、暖かかった。
 摩央はカーテンを開けた。窓はすりガラスで、外の景色を眺めることはできない。窓には枝葉の影がまばらに絡みついていた。この洋館は木々に護られているのだから、無理もない。
 朝の白い光が、ぼんやりと部屋の中を照らし出した。
 まだ、見慣れぬ部屋だ。
 窓という窓のカーテンを開けた頃、出入り口のドアがノックされた。返事をすると、入ってきたのは、着替えを手にした木偶の下僕だった。
 昨夜ランプの消し方を教えてくれた下僕と、同じ下僕なのだろうか。それとも別の木偶なのか。それすらも判別がつかない。
「おはようございます」
「……おはよう」
「おようふくでございます」
「ありがとう」
 受け取って見れば、それは昨日着たものとは違うドレスだった。フリルがついたゴシック調のものには違いないが、ボタンに大粒のブラックパールを使用している。
「これ……」
「はい?」
 ばさ、とドレスを広げて、摩央は無表情な性別不詳の下僕に尋ねた。
哭帥(クー・シュアイ)の趣味? 彼が買ってくるの?」
「わたくしどもがぬいました。ごしゅじんさまがじょせいのおめしものをよういするようにとおっしゃいましたので」
「……いつ?」
「いいつけられたのはきょねんです。おくさまのためにと」
 奥様。
 その称号が自分にもうじき与えられるものであることは間違いない。摩央は眉をひそめたが、木偶を責める気にはならなかった。
 哭帥は1年前から、摩央を娶ろうと考え始めたのだろうか。
「ありがとう。大事に着させてもらうから」
 下僕はかくりと腰を折ってお辞儀をし、部屋を出ていった。
 摩央はしばらく、木偶が縫ったドレスを眺めていたが、結局袖を通した。相変わらず、胸と腰が少しきつい。制服を思い出す。
 哭帥は、御樹を通して摩央を見ていただけだ。詳しい寸法を、木偶に伝えることができなかったのだろう。
 着替え終えたところで、またノックが聞こえた。
 開けたドアの向こうには下僕がいた。
 服を持ってきてくれた下僕と同じ顔だった。


◆◇◆


 下僕に連れられ、摩央が辿り着いた先は、やけに広い食堂だった。
 広い食堂に長テーブル、花、2人分の朝食。哭帥の姿はない。肉料理の用意もない。
 バスケットに入っているのは焼きたてと思しきバターロール。かすかなコンソメの匂いと湯気を立てる黄金色のスープ。ベーコンエッグ。1杯の紅茶と、ティーコゼーがかぶせられたポット。
 この朝食だけ見れば、この館の主が人外で、しかも人肉を好む存在だという事実は読み取れない。ごく当たり前の洋朝食だ。
 摩央を席まで導いた後、下僕は奥に引っ込んだ。摩央の席の真正面が、哭帥の席であるようだ。食器と料理が並べられている。
「……いただきます」
 摩央は囁いた。習慣だったからだ。
 けれども、その挨拶を聞いてくれる者は、ひとりもこの場にいなかった。
 家族や恵津子がそばにいない、たったひとりの朝食は、初めてだった。ひとりきりの食事には慣れていたはずなのに、どうしてだろうか。
 とても、心細い。


 料理は上品な味がした。摩央には少し味つけが薄いように感じられたが、不味くはない。使っている素材が、料理に気品を与えているのかもしれない。
 無心で食べていた摩央は、花の香りがついた紅茶を飲んで、一息ついた。紅茶の温かさが、じわりと胸の奥から全身へ広がっていく。それに従って、凍りついていた心が少しずつ、動き始めた。
 この屋敷には、カレンダーや時計の類がない。摩央は何も持たされずに、この屋敷に拉致されていた。携帯電話も、お気に入りだった腕時計もない。果たして今日が何月何日何曜日何時何分何秒なのか、摩央は知りたくなった。
 そして、自分が本当に、人間の世界とは違う世界に来ているのだということを痛感した。
 今日は月曜だろう、と摩央は思う。
 今日が月曜であるならば、学校に行かなければならない。
 もし、今日が月曜だとしたら。
 安笠摩央は、土曜の夜から月曜の現在まで、人間の世界では行方不明ということになる。学校や家は大騒ぎだろうか。あの長谷川聖那子が先頭に立って、噂を振りまいているだろうか。
 数学教諭の高田の死も、話題に上らぬはずがない。今日の楔果楔果女学院の生徒は、お喋りに大忙しだ。

「……!」

 高田のことを、今まで忘れていた。
 煙草を吸っていた自分のことも。
 煙草を吸っていたという秘密をダシに、高田はホテル『ダイス』へと摩央を呼び出した。そして、死んだ。
 手首。
 窓辺に転がっていたその異物と、御樹の笑い声。
 ――哭帥。あなたね。
 椏人も人間の男と同じような恋や愛をするというのなら――想い焦がれる女が汚されようとする危機を、黙って見過ごすはずがない。
 何ということだろう、と摩央は絶望した。なぜ自分はそれを考えていなかったのだ。哭帥が高田を殺し、その手首を切り落として、摩央の部屋に置いていった。もう安心しろ、というメッセージだったのか。哭帥が携帯電話を操って、高田の死顔を写真に収めている光景は、あまり想像がつかないが。
 摩央の手が震えていた。
 人を牛や豚程度にしか思わない生き物なのだから、人間の1匹や2匹、苦痛を与えて殺すのもわけないはずだ。
 かちかちかちかちかち、とフォークの先が皿を小刻みに叩いていた。
 ――哭帥。あなたが……。
「やれやれ。寝過ごした」
 摩央は驚かされたときの早さで振り向いた。不機嫌そうな顔の哭帥が食堂に入ってきたのだ。
 漆黒のタキシードに、黒いシャツ、緑のクロスタイ。昨日とあまり変わらない装いだ。現代の人間にとってタキシードは立派な礼装だが、椏人にとっては普段着なのだろうか。文化が人間の歴史で言う中世辺りで定着しているのかもしれない。椏人の時の流れは、人間のものよりもずっとゆるやかなのだから――。
「……お、おはよう、哭帥」
「うむ」
 哭帥は摩央の引き攣った挨拶に、渋面で答えた。朝に弱い性質なのかもしれない。眉間に皺を刻みながら、彼は摩央の向かいの席についた。
「……」
「……」
「……」
 哭帥は無言で食事を始めた。仕種は相変わらず優雅なのだが、どこか動作が鈍い。
「哭帥」
「なんだ」
 摩央が呼びかけても、哭帥は不機嫌な顔を俯けて、パンを口に運んでいた。摩央の顔を見ようともしない。
「……低血圧なの?」
「ていけつあつ? 何だそれは」
「ごめんなさい、言い換える。朝が苦手なの?」
「マオ、我らは闇を糧にする存在――」
 ようやく顔を上げた哭帥は、しかめっ面で摩央を見つめ、大仰な身振りをぴたりと止めて、言葉も止めた。
「……どうかした?」
「泣いたか」
「えっ?」
「目が腫れている」
 泣いたのは事実だし、目が腫れているのもわかる。洗面台の前の鏡でひどい有り様になった自分の顔を見た。ずばり指摘されて、摩央は思わず赤面し、哭帥から顔を背けた。
 鼻で大きく溜息をつきながら、哭帥が席を立ち、摩央の傍らに立った。
「見せよ」
「……いや」
「黙れ。見せてみよ」
 低血圧の疑いがある哭帥は、低くかすれた不機嫌な声で、摩央に命じた。命じた次の瞬間には、左手を伸ばし、摩央の顎をぐいと掴んで、無理やり顔を上向かせていた。
 哭帥が、空いている右手をひらりとひるがえす。手品師の仕種で、猫のように音もなく、しなやかに。
 彼の指が、いつの間にか真紅の実をつまんでいた。摩央の目に不可思議な木の実が映った瞬間、ぱちん、と小さな音が爆ぜた。哭帥が、つまんでいた実を潰したのだ。
 赤い、血のような色の果汁が飛び散って、摩央の目の中に入り、目蓋を濡らした。
 さすがに驚いて、摩央は叫び声を上げ、哭帥の左手を振りほどいていた。
「なっ――ちょっ――何したのッ!」
「おお、そう大声を出すこともあるまい」
「何したのよッ!」
「ええい、(やかま)しい! 黙れ! 脳髄が揺れる!」
 ああああ、と哭帥が呻きながらこめかみを押さえた。そんな哭帥の反応にかまける余裕は、摩央になかった。ひんやりと冷たい果汁の刺激が、パニックを呼んでいた。
 しかし、その混乱もすぐに収まった。
 摩央の目から、じりじりとしたむず痒さが消えたのだ。泣き腫らしたはずの目蓋が軽い。クールタイプの目薬をさした、あの清涼感が目の上を滑る。
 摩央は何度も目を瞬き、哭帥を見上げた。摩央の顔を見た哭帥が、不機嫌な溜息とともに大きく頷く。
「――良し」
「治して……くれたの?」
「そう考えておくが良い。そちはこれから余の友に会うのだ。無様な面を晒されてはかなわぬ」
 摩央の視界は、すっきりと冴え渡っていた。機嫌の悪い哭帥の顔もよく見える。
 彼が着ているタキシードがまったくの漆黒ではなく、どうやら黒い糸で紋様が刺繍されているらしいことまで見て取れた。ひょっとすると、視力まで上がったのかもしれない。
 椏人の未知の力を知って、摩央は呆然とした。呆然とした彼女を気にも留めず、むっつりと哭帥は食事を続けている。
 やがて、ひとりの下僕がどこからか現れ、哭帥に何事か耳打ちした。
「なに?」
 哭帥は難しい顔をさらに険しくして訊き返し、膝にかけていたナプキンを取って立ち上がった。
「嵬苑――これからそちを会わせに行くつもりだった余の友が――出向いてきた」
 哭帥はナプキンをきっちりと畳んで、テーブルの上に置く。
「彼奴から出向くとは珍しい。何かあったに違いない。行くぞ」
 今朝の哭帥の言葉には、昨日にも増して、有無を言わせぬ力があった。
 摩央も哭帥も、まだ朝食を食べ終えていない。しかし、摩央は、行かなければならなかった。哭帥と同じように、膝に引いていたナプキンを畳んでテーブルに置いた。哭帥の畳み方のほうが、きっちりと端が揃っていて、綺麗だった。


◆◇◆


嵬苑(カイエン)
「哭帥」
 ロビーで待っていたのは、和装の椏人だった。ザンギリ頭に、人間で言えば、30代前半といったところの男だ。すっきりと細い顎、通った鼻筋、美しい柳眉。歌舞伎役者や狂言師のように、きりりとした和の威厳を持っている。長い前髪の向こうにある目は、哭帥と同じ、深い翠色だった。
 その目は、ちらと動いて、哭帥から摩央に移ったが――彼は何も言わなかったし、表情も変えなかった。彼は哭帥に出迎えられてからずっと、微笑していた。
「突然邪魔をして悪かったな。御前が朝に弱いことは重々承知していたのだが」
「良い。日が高いうちにそちの屋敷を訪ねようとしていたところだ」
 哭帥が低血圧なのかどうかは定かではないが、ともかく、不機嫌である理由はわかった。この男は、友人によると、朝に弱いらしい。隙もある男なのだと、摩央はこのとき初めて知った。
「して、何用だ、嵬苑。そちが出歩くとは珍しいではないか」
「その前に、御前の想い人を己に紹介してくれよ」
 嵬苑は腕を組んで、摩央に目を向け、にい、と笑んだ。
「なあ?」
 明らかに、摩央に同意を求めていた。人懐こいようだが、どこか天の邪鬼な性分であるようだ。摩央は思わず嵬苑から目をそむけ、俯いていた。
「……マオだ。何者であるかはわかっているであろう」
「刀夫人や柘紋、普段の御前と己が言うところの、『人畜生』だ」
 ふ、と嵬苑は笑って、鼻を吸った。
「臭いでわかる」
 ゆったりと微笑む嵬苑に、摩央はようやく、会釈をした。椏人というのは、皆このように余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)とした笑みを浮かべるものなのだろうか、と思いながら。
「己はまだ死にたくないからな。御前を悪し様に言ったり、刺身にしたりはしない。哭帥は怒ると――」
「嵬苑! 余は確かに朝と寝覚めが弱い。目覚めたばかりは、些細なことで腹を立てる。余の怒りが恐ろしいならば、さっさと用を言え!」
「もう怒っているではないか。仕方のない奴だ」
 とても客に放つものとは思えない台詞を吐き捨てる哭帥に、嵬苑は苦笑いをしてみせ、すす、と腕組みをしたまま近寄った。
 そして、哭帥に、こそこそひそひそと耳打ちしたのである。
 嵬苑の話を聞くうち、哭帥の険しい顔に、段々と困惑の色が広がってきた。摩央には、嵬苑が哭帥に何を話しているのか全く聞こえない。2人とも翠の目をいたずらに泳がせず、静かに伏せていた。だから、嵬苑の話に摩央が関係しているのかどうかもわからない。
 ただ、哭帥にとって都合の悪いことが起きているのは間違いないようだ。
 嵬苑は哭帥の耳元から顔を退けると、顎で玄関の扉を示した。
「……行け。行って話をつけてこい。将来の奥方は連れて行かないほうがいいだろう。何なら、己が見ていてやってもいい」
「面倒な話だ。何故、余が夫人(マダム)を気遣う必要がある?」
「御前のためだ。知らんぞ、夫人が館に乗り込んできても。御前は頑丈だろうが、人間は胸を刺されるだけで死ぬのだ。もっと面倒なことになる前に何とかしておけ。これは友からの忠告だ」
 嵬苑の顔から、束の間笑みが消えた。笑みのなくなった彼は、真顔だった。
 哭帥はしばらく嵬苑の真顔を睨みつけていたが、わざとらしい大きな溜息をつき、摩央に顔を向けた。
 嵬苑を睨んでいた表情のままだったから、ひどく恐ろしい形相で睨まれたように、摩央は感じた。身体が勝手に強張る。
「余はもうひとりの友と少し話をしてくる。そちはこの嵬苑と共に館に留まれ」
「おお。やっと己を紹介してくれたか。この辺りの山に住む嵬苑だ、よろしくな」
 にやにやする嵬苑に、哭帥は何事か耳打ちし、乱暴な足取りで館を出て行った。馬車が行く音が聞こえ、やがてその音は、静けさの中に溶けていった。
「やれやれ」
 消えていく音に、嵬苑が苦笑混じりの溜息をつく。
「……さて、あんたを何と呼ぼうかな」
 自分の頬を撫でながら、嵬苑が摩央に目を落とす。翠の目には、珍しい玩具に出会った者が宿すような、好奇心と期待が浮かび上がっていた。
「摩央、で結構です」
「そうか、摩央。哭帥からは屋敷を好きに使えと言われた。この館の勝手は知っている――庭にでも出て、少し話すか」
 選択の余地は、ないようだった。
 摩央は頷き、嵬苑の隣について歩きだしていた。


◆◇◆


 和装の嵬苑は、哭帥ほどではないが、長身だった。着流しと半纏をきっちりと着こなしている。哭帥のように、ほとんど黒尽くめと言ってよかった。前を開け広げられた半纏の下に見える帯だけが、闇に沈むような真紅だった。
「哭帥の帰りは遅くなるだろう」
 整えられた庭園を歩きながら、嵬苑は話す。
「人間もそうなのだろうが、己たちも、恋や愛が絡むと揉めるのだ。椏人が殺し合うのは、大方、色恋沙汰が絡んだときと相場が決まっている」
「……」
「自然も罪なことをした。己たちを獣と同じ知恵の存在にしたら良いものを、わざわざ人間と同等の知恵を与えたのだ。己たちは恋をし、嫉妬し、憎しみ、冗句を言って笑い合う。だから、な――」
 ざり、と嵬苑は足を止めた。
 音もないそよ風が、彼の前髪を払う。翡翠のような目が、じっと摩央の顔色を窺っていた。値踏みしているようでもあった――。
「哭帥の心は本物だ。あいつはあんたに心底惚れている。あんたを救いたがっているのだ。移り気で残虐な性分も、あんたがきっと変えてゆけるだろう。己は期待しているのだ。己は、哭帥をあんたに託したい」
 わたしの心はどうなるの、と、摩央は言い返したかった。
 しかしどういうわけか、その反論が、喉につかえて出てこなかった。
 ――どういうこと。
 自分でも知らない間に、心が動いているとでも言うのか。または哭帥が超自然的な力を使い、摩央の心を変えてしまったのか。
 ――わたしが哭帥のことを好きになるとは限らないじゃない。どうしてあなたも哭帥も、……わたしも、それを考えないの。
 摩央は俯き、首を横に振った。
 わからない。
 穿き慣れていない黒い靴と、嵬苑の深緑の草履《ぞうり》が、綺麗に刈り揃えられた芝生を踏んでいた。
「……哭帥は、どこへ何をしに行ったんですか」
「刀夫人という、己と哭帥の共通の友人がいてな。彼女のところへ、話をつけに行った……はずだ」
 嵬苑はぽりぽりと、困った顔で耳の辺りを掻いた。
「夫人は哭帥に惚れているのだ。哭帥もそれに気づいていたが、あやつは夫人にさして恋心を持っていないようでな。夫人は耳ざとい。昨日、哭帥とあんたが柘紋の家で騒ぎを起こしたことを知り、己に泣きついてきた」
「え、それって……」
「ああ。断っておくが、夫人の『夫人』というのは仇名みたいなもので、今は独り身なのだ。だから刀夫人と哭帥が恋をしようが実を生そうが誰からも咎められることはないのだが――」
 嵬苑はそこで下僕のようにかくりと腰を折り、摩央の耳元で囁いた。
「2人とも酷く自尊心が高いのだ」
 ふっ。
 摩央は思わず、軽く噴き出した。嵬苑も同時に、鼻で笑っていた。
「夫人は大陸で相当な力を持つ男の妃だったし、哭帥も……」
「哭帥も、出身は中国――大陸ね。向こうでは偉かったんですか?」
「おっと。こいつは、喋り過ぎた」
 嵬苑はおどけた笑みで、手を唇にやった。
 明らかに、口が過ぎたことに対して危機感を抱いていない。初めから話すつもりだったのだ。
「己が話したとは、言わないでくれよ。――哭帥というのは、あいつの2つ目の名だ。前の名であったとき、あいつは――それはそれは、悪名高い暴君であった」
 嵬苑は話した。
 緑の弱い風の中で。


 400年以上前のこと、海を越えた大陸には、哭帥(その当時の名は己も知らない、と嵬苑は言った)と刀皇(ダオ・ホァン)という2人の椏人がいて、堕落した贅沢な暮らしを送っていたという。
 2人はあまり仲が良くなかったが、元より椏人は面倒を嫌うので、互いを避けていた。触らぬ神に祟りなしというが、折り合いが悪い2人も顔を会わせなければ諍いが起きるはずもない。
 哭帥は大陸の北に屋敷を構えていたようだ。刀皇は、南に。
 毎日のように豪勢な人肉料理に舌鼓を打ち、新月と言わず満月と言わず、夜な夜な宴を開いては、力を持つ椏人たちと交わり、美しい女や楽の才に富む女をはべらせていた。
 特に哭帥は、残虐な見世物を好んだ。
 人里から(さら)ってきた人間の手足を切り落とし、達磨にした。その達磨を(かめ)に入れて、血漬けになり、苦悶のうちに死んでゆく様を肴にするのが、特に気に入っていたようだ。
 目を抉り、舌を抜き、指を1本ずつ切り落とし、生きたまま皮を剥ぎ、肉を削ぎ、涙を流す人間たちの目の前でその肉を喰らう――浮かれた宴の喧騒と、人間たちの悲鳴を愉しみに、彼は生きていた。
 時には己に無礼を働いた椏人も、人畜生扱いすることがあったそうだ――つまりは、椏人にも、そんな残虐な仕打ちをしたということだ。
 しかしそれでも、哭帥はそれを補って余りある魅力と力を持っていたから、慕う者や付き従う者が多かった。哭帥も、己にかしずく者には寛大なところがあった。

 しかしその喧しい生き様を、哭帥は400年前、ぱたりとやめてしまったのだ。

 屋敷を捨て、女を捨て、地位も富も何もかもを自ら捨て去り、哭帥はこの島に来た。残虐な行いも、椏人との活発な交わりも、ここに来てから断っている。
 何が彼をそうさせたのかはわからない。哭帥は何も語ろうとはしないのだ。
 しかし、哭帥が流れてくる前、大陸で刀皇が何者かに暗殺され、刀夫人がこの島に落ち延びてきたという噂が立った。
 噂は真実であったことが、後に明るみに出ることになった。
 刀皇の死と刀夫人の存在が、哭帥の変化に何の関係もないとは思えない。嵬苑を含めた島の椏人たちは、哭帥が刀皇を殺したのだとか、刀夫人が2人の男を狂わせたのだとか、まことしやかに囁きあった。
 哭帥は社交界の鼻つまみ者だが、彼を堂々と悪し様に言う椏人は少ない。哭帥が400年前まで、血生臭い行為を好んでいたことを知っているからだ。
 哭帥の恐ろしさを知っているのだ。
 哭帥の真意は誰も知らない。


 嵬苑の話を疑うつもりはなかったが、摩央は正直、信じられなかった。聞かなかったことにしておきたかった。
 嵬苑は何を考えているのだろう。彼は哭帥を信用しろと言ったが、そんな血塗られた上に謎めいた過去を聞かされてしまっては、まともに目を見て口を利くことさえ難しくなってしまうではないか。
「……どうしてそんなことを話すんですか、嵬苑さま」
「愛するということは、相手の全てを知り、受け入れることだ。違うか?」
「……」
「あんたには、あいつを愛してもらいたい。己や刀夫人では無理なのだ。あいつを知り、受け入れてやってくれ。あれはあれで、酷く不幸せなやつなのだ」
 いつの間にか嵬苑の顔から、笑みが消えている。
「あいつは孤独だ」
 哭帥が島に渡ってきたことはたちまち土着の椏人たちの知るところになったが、大陸での風評を耳にしていたから、面倒を嫌って誰も彼に近づかなかった。
 彼が残虐な行為はおろか、賑やかな暮らしを避けるようになっていることに気づいても、やはりすすんで彼に近づく椏人は少なかった。
 嵬苑が彼と知り合ったのは、嵬苑が好奇心旺盛で、怖いもの知らずであったからだ。大陸で悪名を轟かせていた哭帥という存在がどんなものなのか逆に知りたくなって、嵬苑は彼に近づいたのである。哭帥は、そんな嵬苑をすんなり受け入れた。
「面白い奴だ、と言われたよ。平気な顔を装っていたが、己にはすぐにわかった。あいつは孤独を恐れていたよ。あいつはここに来るまでずっと毎日やかましく暮らしていたのだ。急にひとりになって、楽しいはずがないさ。近づいた己を見てほっとしているようだった」
「嵬苑さまもずっとおひとりだって哭帥は言っていたわ」
「己はひとりを楽しんでいる。ひとりのほうが性分に合っているようだ」
「哭帥と刀夫人みたいに、恋をしたりはしないの?」
「己か? 己はこれでもいつも恋をしている」
 摩央はその答えにきょとんとしたが、嵬苑はその表情を笑っただけだった。
 庭は、綺麗に整っている。
 摩央はぐるりと、広すぎる庭を見回した。いまこの広大な庭にいるのは、会話を交わしながら歩く摩央と嵬苑の2人だけだ。
 恐らく、植え込みの枝葉を落としたり、芝生を刈り揃えたり、咲き乱れる花々の手入れをするのは、木偶の園丁なのだろう。池があったが、そこには亀も鯉もいなかった。蓮の葉が浮く水面は、今日の風が弱いせいか、ぴくりとも動いていない。沈黙している。
 この見事な庭を歩くのも、眺めるのも、ずっと哭帥ひとりだけ。
 たまに訪れる客人は、嵬苑か刀夫人。
 ぞっとする孤独を感じて、摩央は息を呑んだ。
「嵬苑さま。400年というのは、椏人にとっても長いんですか?」
「己たちは大体1500年ばかり生きる。2000年生きる化物もいるがな。しかし――不老不死ではない。必ず死ぬ。1500年、そのうちの400年だ。短くはない」
「……わたしは、どんなに長生きしても、あと100年も生きられません。哭帥と一緒にいようと思っても、それは……きっと、とても短い間ではありませんか」
「ああ。そうだな。少し苦労をするが、己たちは長寿の秘薬を作ることもできる。が……あんたは必ず、哭帥よりも先に死ぬ」
 嵬苑が、声を落とした。
「それが自然の定めた摂理だ」
 摩央の足元を、蟻が行く。その強靭な顎で、自分の身体の倍もある大きさの蜂をくわえていた。蜂はまだ、ぴくぴくと後ろ足を動かしていた。
「――しかしな、それでも。500年孤独であるよりは、400年間孤独であったと云うほうがましだろう。己は、そう思う」
「ひとりは怖いです」
 摩央は、蟻を見つめながら呟いた。
「わたしもひとりはいや。ひとりになるくらいなら……たとえ人喰いの木でも……そばにいてほしいの。ひとりは慣れてるつもりだったけど、わたしは今まで、ずっとひとりなんかじゃなかった。わたしはそれに気づいてなかったの。……子供よ。ひとりが……怖いの……」
「大丈夫だ。己でもよければ友人になる」
 摩央が振り返ると、嵬苑は腕を組んで、微笑していた。どこか蠱惑的で、はっきりと正体を掴めない笑みだ。その言葉の本心は、その笑みに遮られて、見えなくなっている。
 けれども、たったひとり、バスタブで泣いて目を腫らすよりはましなのかもしれない。
「……ありがとう。……嵬苑さん」
 嵬苑の笑みが、またひとつ、大きくなった。

「さあ、あんたを送っていこう」

 それまでの、寂びた重苦しい空気を裏返すように、嵬苑がどこか呑気な声を上げ、腰に手を当てて伸びをした。
 半纏の下から尾が現れて、これも、ぐぐうと震えながら伸びていた。
「えっ……送っていく、って?」
「哭帥に頼まれたのだ。あいつは本当に人遣いが荒い。今でも皇帝気取りなのだろうな。あんたを、畜生界の生家に送れと言われたよ。『縮地(しゅくち)』を使うのは久し振りだから、少し面倒なんだがな……哭帥の頼みだ。仕方ない」
 哭帥は摩央のわがままを聞いてくれたのだ。
 嵬苑に会わせ、それから安笠邸に返す。次の新月に、また迎えに行く。次の新月が来る前でも、摩央の決心がついたなら、いつでも迎えに行く――哭帥はそう言った。摩央にはまた必ず会うつもりだから、今朝は別れの言葉も口にしなかったのだろう。
 嵬苑は、つん、と自分の髪の毛を1本引き抜いた。
 摩央が見ている前で、そのひと筋の髪は、1枚の黒い葉に変わった。柳の葉を少し太らせたような、その黒っぽい葉には見覚えがある。――御樹の葉だ。
「さあ、地を縮めるぞ。上手くいけば、拍手ご喝采だ」
 嵬苑は左手を摩央の腰に回すと、すいっ、と右手の指でつまんでいた葉を落とした。風もない午後の空気の中を、音もなく葉が落ちていく。
 葉が、嵬苑の爪先のそばに落ちた。


 *

 *

 *


 摩央が覚えているのは、暗闇と、新月の黒い光。
 午後のそよ風。嵬苑の謎めいた笑みと真顔。そして哭帥だ。
 草の匂いで、摩央は目覚めた。彼女は湿った芝生の上に横たわっていた。
「……!」
 飛び上がるようにして上半身を起こした彼女が見たのは、安笠邸と、その庭だ。摩央は御樹の下に倒れていた。髪の毛に葉と土がついていた。
 戻ってきたのだ。
 嵬苑の姿はどこにもない。
 ただ――
 ざざざざざざざ……。
 御樹の囁きのような声が頭上で起こり、摩央は長い夢を見ていたような気になっていた。