さよならドロシー




 ドロシーは帰ってこない。
 ぼくは何を期待していたんだろう。
 この部屋から連れ出されていった友だちは、みんな帰ってきやしなかったじゃないか。
 ぼくは鉄格子の中で、空っぽになったドロシーの部屋を見つめた。……あの部屋には、きっとすぐに、べつの女の子や男の子が入れられるんだ。

 やつは、頭がおかしい。そうに決まってる。

 ぼくがここに来てから、どれくらい経ったのか――ぼくにはわからない。ぼくは、ばかだ。自分でも、あまり頭がよくないことはわかってる。
 大好きなあの家に、ぼくはもう戻ることができない。
 ぼくは、ここに連れてこられて、この牢屋のような部屋に入れられ、まず、脚を一本ちょん切られた。ぼくが泣きわめくのを、やつは笑って見ていた。やつはそれから、ぼくの右の耳をはさみでちょん切り、ぼくの鼻をぶった。ぼくの胸を蹴った。ぼくは、長い間泣いた。泣いても、ちょん切られたものはくっつかなかったし、戻ってこなかった。泣きすぎてそのうち、声が出なくなってしまった。やつは水をあまりくれないから、今でも声がかすれてる。
 ぼくは、ここを出られない。お腹がすいた。なまの肉を食べたい。

 ドロシーは、そんなぼくよりも少し前に、このひどいところに連れてこられた女の子だった。スプーンで両目をくりぬかれていた(と、彼女が話した)けれど、とても耳がいい子で、ぼくがいる方向や、ぼくの囁き声が聞こえるらしかった。ぼくとドロシーは、痛いのや怖いのを忘れようとして、いろいろ話した。大好きな家のことや、大好きなともだちのこと、大好きな食べ物のこと……。
 でも話しているうちに、ここにはその大好きなものがひとつもないことに気がついて、きまって最後にはしくしく泣いた。
 ぼくらは、あの頭のおかしいやつにいじめられて、殺されるんだ。
 でも、そうしてなぐさめあうことができた。
 そんな毎日は、たったひとりで泣いているよりも、ずっとずっとましだったはずだ。

 ぼくの話し相手は、ドロシーだけじゃなかった。
 分厚い壁と、間隔がせまい鉄格子のせいで、ほとんど顔を見ることはなかったけど――隣の部屋には、ラシードっていうクールなやつがいた。
 ……いた、んだ。
 ドロシーが連れていかれる前の日に、やつに連れていかれた。ラシードは、連れていかれるときに、精いっぱい抵抗していた。やつに噛みついて、引っ掻いて、やつに悲鳴を上げさせた。ラシードはいつも言っていた。
「おれはただじゃ死なない。やつに一泡吹かせてから死んでやる。おれたちにも出来ることがある。出来るだけのことをしてみて、それでもだめだったら、諦めもつくじゃないか」
 ……かれは、ほんとに、クールだった。
 ラシードは帰ってこなかった。

 ドロシーがいなくなってからしばらく経って、ドローシがいた部屋の中に、女のひとが入れられた。やつの様子がへんだった。いつも、ぼくらをばかにして笑ったりからかったりしてくるのに、やつはその女のひとを部屋の中に入れながら、ぶつぶつ言っていた。爪をかんでいたし、ふるえているようにも見えた。
 やつは女のひとを部屋の中に入れて鍵をかけたあと、ぼくらを見もしないで、そそくさと消えた。
 女のひとは長いこと気を失っていた。女のひとは、大人だった。ぼくらよりもずっと身体が大きい。だからぼくは、女のひとを起こそうとしてさんざん騒いだ。ぼくがのどが痛いのをがまんして大声を上げたら、部屋という部屋に入れられている友だちがみんな騒ぎ始めた。耳が痛くなるほどうるさくなったのに、女のひとはぴくりとも動かなかった。
 死んでいるかもしれない、なんて思いたくなかったから、ぼくらは声をかけ続けた。
 声がもうほんとに出なくなってきたころ、ようやく女のひとが動いた。女のひとはきれいな金髪だったけれど、頭のはじから血を流していた。きっと、やつに頭を殴られたんだ。
「……ひどい臭い」
 女のひとは、頭のはじをおさえながらうめいた。女のひとのうめき声はすごく小さくて、みんなの騒ぎ声にかき消されかけていたけれど、ぼくは耳がいい。しっかり聞こえた。
 無理もないな、とぼくは思った。ぼくらはここに連れてこられてからお風呂に入ってないし、シャンプーもしてもらってない。殴られたり、切られたりしたケガもそのままだ。ぼくらが自分でなめているだけだから、傷口からはいやな臭いの汁が出てきたりしていた。
「……かわいそうに、みんなやつに捕まっていたのね。でも、ごめんなさい。わたし、ヘマしちゃった……」
 女のひとは恥ずかしそうに笑いながら、呟きつづけていた。
「でも、大丈夫。わたしがヘマをして捕まったから、きっと助けは来る。ここでやつを止めなくちゃ、もっとひどいことになる――」
 女のひとは顔をしかめながら、スーツの中をさぐって、そのうち、安そうなサングラスを取り出した。女のひとはそのサングラスのつるを片方折った。それから、鉄格子につけられた錠前につるを差し込んで、カチャカチャいじり始めた。
 何をする気だろう。それはサングラスのつるだ。鍵じゃない。
 ぼくは黙って見ていた。
 すると、なんと!

 カチリ、

 女のひとは開いた錠前をいそいそと外して、ドロシーの部屋から抜け出した。
 なんてこった! 魔法みたいだ!
「安物の鍵で助かった。さあ、あなたも出してあげる。ちょっと待ってね」
 女のひとは、ぼくの部屋の鍵も、あっと言う間に開けてしまった。
 鉄格子を開かれて、ぼくは久し振りに部屋の外に出た。ぼくの脚は一本なくなっていたから、立つのも歩くのも大変だった。
「逃げて。やつは慣れないことして、考え込んでいるはずだから。逃げるのよ! さあ、早く!」
 女のひとに追いたてられて、ぼくは逃げた。
 外の空気は、とてもとてもおいしかった。


 逃げられたのは、ぼくだけだろうか。
 ぼくは何だか、すごくすっきりしない気持ちだった。
 ドロシー、ラシード。あの部屋にいたたくさんの友だち。ドロシー以外は顔を見たこともなかったけれど、ずっと励ましあって、やつを一緒に憎んで、怒って、騒いだ。
 それをぼくは、何にも言わずに逃げ出してきてしまった。
 あの魔法使いのような女のひとに、お礼もしていない。女のひとは、怖い顔をしていた。だからぼくは、怖くなって、素直に逃げてしまったんだ。
「おい、こりゃ……ひでェ」
 不意に声がして、ぼくはびっくりした。
 やつの汚い家のまわりは、草がぼうぼう茂っていた。その茂みから、よれたコートを着たおじさんが現れたんだ。驚いたぼくは跳び上がって、身構えた。おじさんは慌てたように両手をひらひらさせて、腰を落とした。
「おうおうおう、どうどうどう。何にもしやしない。やつのところから逃げてきたんだな? 女を見なかったか? ブロンドで、背が高いやつだ。……ったって、わからんか。……おれも焦ってるらしいな」
 おじさんは笑った。あの女のひとと同じ、恥ずかしそうな笑い方だった。
 おじさんは、いいひとそうだった。しかも、あの女のひとの友だちなんだ。ぼくは身体を楽にした。おじさんは、ものすごく臭いはずのぼくの身体を撫でてくれた。
 おじさんのコートの前が開いてる。
 ホルスターに入った銃が見えた。鉄の匂いがする。最強の匂いがする……。
 このおじさんなら、やつを倒せるかもしれない。
 ぼくは、おじさんのコートの裾を引っ張った。
「ついてこいってのか」
 おじさんはホルスターから銃を抜いた。
「話のわかるやつだ。おまえがどこから逃げてきたのか、教えてくれ」
 おじさんが通れるかどうかはわからないけれど、真正面の玄関から入るよりずっとましなはずだ。ぼくは逃げてきた道を引き返した。


 それからは、映画みたいな展開だった。
 目まぐるしくて、よく覚えてない。
 でもおじさんは、やつをなんとかしてくれた。
 やつに銃を向けて、転ばせて、手錠をかけていた。あの女のひとが駆け寄ってきて、やつの脇腹に蹴りを入れていたのは、はっきり覚えてる。ブラァボ! すごくいいキックだよ!
 そのうち、黒い制服のおまわりさんたちが大勢やってきて、閉じ込められていた友だちはみんな残らず助け出された。見たこともなかった友だちだったけれど、その声ですぐにわかり合えた。みんな傷つけられていた。ぼくのケガは軽いほうではなかったけれど、目をくりぬかれたり、舌をちょん切られてないだけましだ。ぼくはこのケガが治れば、前と同じような生活ができるもの。脚が一本なくたって、歩くことも走ることもできる。
 中には、脚を全部ちょん切られた友だちもいた。そいつはもう声を上げることも出来ないくらい弱っていた。おまわりさんに抱えられて、ぼくを見つめながら、どこかに運ばれていった。ほかの友だちも、みんなぼくを見つめて、ときにはお礼を言ってから、どこかに連れられていく。
みんな、もといた家に戻れるといいな。
もし戻れなくても、きっとここよりはずっとまともなところに行ける。そう信じたい。
でもみんな、ぼくにお礼なんか言わないでくれ。
ぼくはただのチキンなんだ。
「あなたはヒーローよ。よくやったわ。すぐ病院に連れて行ってあげるからね」
 金髪の女のひとが、目に涙をうかべながらぼくの頭をなでてくれた。
 そのときだ。
 やつが、汚い家の説明を終えて、おまわりさんたちに連れられて、ぼくの目の前を横切ったのは。
 あのぼさぼさの頭。今はすっかりおびえているけど、ぼくらをいじめて、傷つけて、ずっと笑っていたあの顔。血といやな臭いの汁で汚れたオーバーオール。ひもがほどけかけたスニーカー。ぼくはチキンなんかじゃない。
 ぼくは気がつけば、女のひとの手をふりはらって、走りだしていた。そして、やつにとびかかった。ぼくはチキンなんかじゃない。ぼくの牙を思い知らせてやる。
 やつが悲鳴を上げた。そんな悲鳴じゃ、まだぼくらが上げた悲鳴のつぐないにはならない。もっと怖がらせて、もっと傷つけてやる。ぼくはやつの顔にかみついた。あっさり鼻と唇がちぎれた。ずっと食べたかったなまの肉だ。
「やめろ! よせ!」
「だめよ! そいつからは聞きたいことが山ほどあるの! 殺さないで!」
 殺してやる! 殺してやる! 殺してやる!
 ぼくは女のひととおじさんに押さえ込まれた。やつは顔面血だらけになりながらわめきつづけていた。おまわりさんたちがあわててやつをパトカーに詰めこんだ。
「大丈夫、大丈夫よ。あいつは頭がおかしいから、もう外に出てくることはないの。安心して。あなたを傷つけるニンゲンはもういないのよ」
「まったく、大したタマだよ。……オスだよな?」
「そうみたいです。警部、この子、飼い主が見つからなかったらわたしが引き取ります」
「ああ、構わないが……このガッツじゃ、苦労するぞ」
 ぼくは興奮していて、ふたりの話はぜんぜん聞いていなかった。舌なめずりをして、ニンゲンの血をなめていた。
 やつがぼくらをいじめるために使っていた部屋のドアが開いて、気分が悪そうなおまわりさんが何人か出てきた。
「警部、こっちの捜査は終わりました。あるのはネコとイヌの死体とその一部ばっかり。ニンゲンのはないみたいですね」
「ニンゲンをさらったのは、わたしが初めてだったみたいだもの」
「事件を未然に防ぐことが出来た。こういうことするやつの獲物は、どんどん大きくなってくもんさ」
 ぼくは見た。
 ドアが閉まるその瞬間、部屋の中を調べているおまわりさんが、袋の中にものを詰めているのを。
 ドロシーの頭だ。
 ドロシー。
 ドロシー、ぼくはやった。

 おまわりさん、おねがいだ。
 ドロシーの頭を、ごみ箱に捨てたりしないで。
 ちゃんと、お墓を作ってあげてよ。
 おまわりさんたちにとってはちっぽけな命だろうけど、ぼくの友だちなんだ。ぼくといっしょに戦っていたんだ。その子は、ぼくの大事な友だちなんだ。その子はネコで、ぼくとはちがう動物だけれど。


「さあ……病院に行きましょ。大丈夫、すぐに良くなるからね。……名前、何ていうの? すぐにご主人さまを探してあげる。でもその間、あなたはそうね、『ヒーロー』」
 どう呼んでくれたって構わない。
 ぼくも、おねえさんの名前を聞かないよ。
 ぼくは尻尾を振って、おねえさんのほっぺたをなめた。
「ドロシー!」
 えっ?
「ドロシー、こっちだ!」
「はい、警部! 今行きますったら! もう、なんで呼ぶときは名前なのよ」

 ……ドロシー。




<了>



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