ハガネ




 男を覚えていられたということは、彼にとっては不幸であった。
 何故なら彼のもとに、ひとつの何の変哲もない届けものがあったからだ。彼は爆弾を送りつけられるような覚えは――無きにしもあらずではあったが――あの男を見てしまったし――いぶかしみながらも、段ボール箱を開けたのだった。
 中に入っていたのは、闇を切り取ったかのように黒いロングコートだった。
 薄手の。
 何の足しにもならないような。
 きっとこれを着ると、夏は暑く冬は寒い。荷物を送りつけてきたのは、どうやら店であるらしい。不吉な名前だった。頭のおかしい人間か、もしくは死神でなければ思いつかないような名前だった。
 彼は思ったよりも重いコートを取り出した。重いのは、腰のベルトについた金具が銀で出来ているからのようだった。三日月と五芒星をあしらった金具だった。
 三日月。
 ああ、あの男。
 彼はばさりとコートを取り落とした。段ボール箱には、まだ入っているものがある。
 自分の名前が表紙に刺繍された黒い手帳だ。
 ジョー。
「ちがう、おれはススムだ」
 五十嵐丞は、いつも通りにそう呻いた。


 ジョウ、ジョウ――
 糸くず取ったげる。
 あっ、白髪みっけ。抜いたげるね。
 ジョウ――


 少ししつこいところもあったが、いい女だった。
 少し子供っぽいところもあったが、いい女だった。
 少し鬱陶しく思えたこともあった。少し、ひとりにしてほしいと思ったことも。
 だが丞は、彼女が好きだった。ああ、霧子。何でも、霧が深い夜に産まれたから、そう名付けられたのだそうな。彼女はもういない。
 丞の家からの帰り、口喧嘩をして飛び出して、そのまま飛び散ってしまったのだ。霧の深い夜だった。霧子は、霧の深い夜に死んだ。だから、霧子。面白い冗談だ。あまりにも深い霧だったから、トラックは車道を走って横切ろうとした霧子を見落としてしまったのだ。時速50キロで走っていた6tトラックが相手では、24歳の女などひとたまりもなかった。彼女は丞のマンションの前で飛び散ったのだった。

 ジョウ……ごめんね。
 ごめんね。
 今謝っても遅いだろうけど、ごめんね、ごめんね、ごめんね。

 丞は耳を塞いで寝ることが多くなった。
 彼の周りで囁かれる噂は、日を追うごとに大袈裟なものになってきていた。
 ――五十嵐の彼女いるだろ。家の前で、死んだらしい。
 ――トラックに轢かれてバラバラだってさ。
 ――最近なんかうまくいってなかったんでしょ?
 ――五十嵐のやつも清々したんじゃないか?
 ――そんな風に思ってたら化けて出るだろうな。
 ――あれ、出てきたんじゃなかった?
 ――夢の中の話だろ。え、実際出たの?
 ――首を抱えて、うらめしやって感じだったんだろ。そう聞いたよ。
 ――五十嵐から直接?
 ――いや、友達が言ってた。
 ――こわッ。
 ――死んだのって家のすぐ前だろ。そりゃ出るわ。
 ――五十嵐、最近引っ越したじゃん。
 ――じゃ、マジ話?
 ――こわッ。
 丞は何も聞かなかったし、ひょっとすると聞かなかったことにしたつもりだったのかもしれないが、ともかく、噂を否定しなかった。ただ、霧子が事故死してからすぐに越したのは事実だ。死ぬ直前に口喧嘩をしたとは言え、丞は霧子が好きだった。霧子の命がばらばらになった現場を見ながら寝食するのは、たまらなかったのだ。夢も見た。デュラハンのように、己の首を抱えた霧子が――
『ごめんね』
 丞はかぶりを振ると、仕事に集中した。発売日も近い、世間の期待も大きいRPGが、丞の目の前で動いている。この世のどこかにいるという幽霊のような、プログラムの中のムシを見つけだすのが今の丞の仕事だ。気が遠くなるような地道な作業だったが、少なくとも、幽霊を探すよりはましな仕事だった。

 ごめんね。

 ひいっ、と丞は息を呑んだ。
 彼は幽霊の類が苦手で、よく霧子に笑われたものだ。あの女は、すべてのホラーを笑い飛ばした。『呪怨』すら、ドリトスを食べながら、笑顔で見ていたのだ。この女を怖がらせるには、実際に幽霊を連れてくるか、本気で包丁を突きつけるかするしかないだろうと、丞は半ば呆れていたものだ。
 ごめんね。
 残業からの帰り道、古い街灯の光の下に立っている女が、霧子に見えたのだ。
 いや、霧子だった。
 いつかの夢のように、真っ赤に染まったブラウス、ジーンズ、彼女の頭。
 ごめんね。
 丞は鬼か獣のように吼えながら、脱兎の如く逃げ出した。家までもう10メートルもない距離だった。街灯の古い光が悪戯したのだ、と自分を誤魔化すことも出来なかった。あの女なら、もしかして幽霊になって化けて出てきたとき、自分に謝ってくるだろうと思っていたから。
 あの夜の喧嘩は、彼女のつまらないへまが原因だったのだから。
 丞はつまらないことで怒った。霧子がカレーをお気に入りのジーンズに落としたから。
『おまえふざけんなよ! いくらしたと思ってんだよ!』
『だから、謝ったでしょ?』
『ホントにスマンって思ってんのか?! 心こもってねえんだよ! おまえの「ごめんね」にはよ!』
 ごめんね。
「ぅお、ぅおおぉおおおぅおぅぅぅおおおおおおおおおぁあああああぁぁああああああああああああああああああああああぁぁぁああああああああああああああ!!」
 ざシん!


 五十嵐丞はそのとき、日本刀を持った男を見てしまったのだ。
 軍服じみた黒コート、黒い軍帽を身につけて、頑丈そうなブーツも履いていた。口には煙草をくわえていたが、火はついていなかった。
 デュラハンは、真っ二つになった。そして、跡形も無く消え去った。
 ふたつになった霧子の向こう側、街灯の光も届かない闇の中に、男は立っていたのである。男は2歩ほど前に出た。光が、男に降り注いだ。丞よりも上背はなかったが、それは186cmの丞が大きすぎるだけの話で、男の背は高い方だ。しかしながら軍帽と黒いコート、日本刀が持つ威圧感が、男をピーター・アーツばりの大男に見せていた。
 男は日本人であるようだったが、ひさしの影の中にある瞳は、鋼色だった。
 目と目が合い、息を呑む。
 それは丞だけではなく、男もだった。
 男はくわえた煙草を苦しげに上下させると、ぎりりと眉を寄せた。
「……信じたりするからだ、おまえまで」
 男は、寂びを含んだ声を持っていた。
「噂そのものだ、おまえが見たのは」
 そこで初めて男は、煙草に火をつけた。
 深々と溜息をついて、煙を吐いた。
「忘れろ」
「……あんた、何なんだ」
 生唾を飲み込みながら、丞は尋ねた。視線は男が手にしている抜き身の日本刀に釘付けだった。目を離すことが出来なかったのだ。いつ斬られるかわからなかったが、斬られそうもないことはわかっていた。
「興味を持つな。オレたちに」
 男の答えは素っ気無く、煙を掻き乱し、彼は踵を返した。軍人のようなその男は、闇の中に溶けていった。丞は、男の首筋に、1本の生々しい傷痕を見た。あれは明らかにいちど頚動脈を切断されている。
 男の瞳の輝きは、刃のもの。あの男は、幾多の修羅場をくぐり抜けている。
 今夜の相手、血みどろの霧子は、きっと大したこともない相手だったのだろう――
 真っ二つになった霧子。千切れた首の傷痕。二つに分かれた傷痕。脊椎までもが唐竹割りにされて……
 丞はその場に屈みこんで、夜食を吐いた。
 そう言えば今夜は三日月で、あの男の軍帽についていた帽章は、切った爪のような三日月だった。

 ジョウ。
 ――キリコ。おまえ、いい女だった。最期まで。


 黒いコートを着ることで、何かが変わるものなのかと期待してみたのだが――
 何も、変わりはしなかった。ただ、黒いコートからは、不安と安らぎを覚える矛盾した香りがした。アロマキャンドルの香りよりもずっと親密だったが、ずっと現実離れしてもいた。何の香りなのかは見当もつかなかった。コートのサイズは、丞のためにあつらえられたものであるかのようだった。まるで、自分の皮膚のように自然に動いた。重さも感じず、暖かさもまた感じなかった。
 あの夜に見た男のコートとは違っていた。丞が着たコートは、探せば売っていそうなデザインだった。だがあの男のコートは、どこかの国の軍隊に入らなければ手に入りそうもない。
「何なんだよ」
 黒コートを着たまま、手帳を手に取る。ぱらぱらとページをめくる。何も書かれていない白紙のページのみがあった。スケジュールを書き込めるようなカレンダーもついていなかったし、ノート代わりに使えそうな罫線もなかった。まるで『じゆうちょう』だ。
「馬鹿か、おれ」
 インターホンが鳴り、丞は不覚にも飛び上がった。黒コートを着たまま玄関に行き、ドアスコープを覗きこむ。丞は胸を撫で下ろした。宅配業者だった。
 ああ、そう言えば、アマゾンでゲームを買ったのだ。昨日だか一昨日だかもう記憶は定かではないが、とりあえず最近、発送メールも届いている。ここのところ他のことばかり考えていたとは言え、丞の今の生き甲斐はPS2だ。丞は、ドアを開けた。

「……は?」

 玄関ドアの向こう側に、宅配業者は居なかった。
 殺風景なマンションの廊下もない。向かいの506号室のドアもない。
 ただ、コートと同じ匂いが立ちこめる、散らかった薄暗い部屋があった。
 見えるのは、壁にかかった魔法陣入りタペストリー、髑髏の置物、燭台、今にも動き出しそうな人形に、古書が詰め込まれた本棚だ。
 部屋の中央には長テーブルがあり、椅子がいくつか並んでいたが、座っているのは黒コートを着た女ひとりだけだった。
 唖然とする丞と、その女の目が合った。女は、年の頃は20代半ば、鋼色の眠そうな目をしていた。頭には、黒いバンダナを巻いている。
 言葉を失っている丞に、女はやがて声をかけた。
「ここに来るの、初めて?」
 自分で馬鹿なことだとは思いつつも、丞は素直に頷いた。
「――アンクウ、新入りさんだよ」
 女が、部屋の奥に向かって声をかけた。間延びした返事があった。
「あああ――ミクニ、悪いけど、きみから説明してあげて」
「えぇ、なんで?」
「ちょっと手がね――離せないから」
「……もう。それじゃ、あたしが説明するね。とりあえず、『死者の国』にようこそ」
 その不吉な店名は、黒コートと手帳の送り先だった。


 馬鹿馬鹿しい説明を受けた。
 黒コートと黒手帳を持った者は、人の噂の後始末をしなければならないのだそうだ。口裂け女、女をだるまにして見世物にするやつら、恐怖の大王、人面犬、杉沢村、ベッドの下の殺人鬼は、皆実際に存在してしまい――人間の命すらも脅かすようになってきた。無から有へと現れた伝説たちは、黒コートの狩人たちが人知れず片付けてきていたのである。信じる心だけを武器に、伝説たちを葬り去るのだ。
「マジで言ってんの?」
「一応」
 女は肩をすくめた。
「でも、見たんでしょ? あたしの同業者」
 あたしたちの同業者、とはまだ言わなかった。どうやら、この仕事は強制ではないらしい。黒コートを着た時点では、まだ契約は結ばれていないのだ。丞はそれに感謝したが、女の眠そうな鋼色の目に見つめられたとき、ぎくりとした。
 軍服と日本刀の男を思い出したのだ。
「同業者を見たってことは、『噂』も見たわけだよね?」
「よしてくれ」
 今度は、丞が肩をすくめた。思い出したくもない傷口を思い出した。
「……会ったのは、何か、ドイツ軍みたいなひとだった。日本刀持ってて」
 女が口を開けた。が、すぐに閉じた。あからさまに慌てていた。
「おれやあんたとは『制服』が違うみたいだな。偉い人か?」
「ハガネ?」
「ハガネっていうのか」
「うん。……この店いちばんの腕。でもべつに偉いってことはないよ」
「……もっぺん会って、出来れば一緒に、仕事ぶりを見てみたいかもな」
「無理だと思うよ」
「何で?」
「彼はもう誰とも組まないの。あたし以外とはね」
「それってつまりあれだ。……ふたりは特別な関係? 随分歳離れてるけど……」
 弾み始めた会話の中で、ようやく女が笑顔を見せた。失笑ではあったが。
「それはないない」
 やけに激しい否定ぶりだ。本当に違うらしい。誤魔化しや焦りはそこになかった。
「すごく普通の関係だよ。特別な関係になったらそれって『犯罪』」
「?」
「キンシンソーカンになっちゃう」
「じゃ、ハガネは……」
「あとはご想像にお任せ、ってね」
 女は店の奥に目を向けた。
 青い髪の、これまた黒ずくめの男が、いろいろなものをまたぎながらのんびりと歩いてきた。手には、紅茶のポットを持っていた。
「今お茶を淹れるよ。……ジョー、それで、大体呑みこめた?」
「……」
 返事が出来なかった。
 そう言えば、女の名前を聞いていない。自分の名前はジョーではなくススムだと、教えてもいなかった。女は着信した携帯を取り出して、誰かと二言三言無愛想な会話を交わしていた。
 青い髪の男が、香り高い紅茶を丞の前に置いた。レモンが添えられていた。丞は紅茶を飲むときはレモンティーと決めている。自販機で買う『午後の紅茶』もレモンだ。その青髪の男にそう注文した覚えはなく、思わず丞は男の目を見た。
 目を合わせたことを後悔した。どうしようもない恐怖と安らぎが、男の目の中にあったのだ。男の目は、ペットショップの鳥篭に入れられた、南国の鸚鵡のもののようだった。
「僕はアンクウ。この店の店主。で、きみたち『カマキリ』の雇い主。でも、畏まる必要はないよ。友達みたいに思ってくれたらいい」
 アンクウはのんびりゆったりと言葉を紡ぎ、ポットを持って奥に引っ込んだ。
 呆然としたまま、丞は紅茶の入ったカップに手をかける。
「ハガネ、ちょうど仕事に行くみたい」
 そのとき、女が携帯をたたんでそう告げてきた。
「飲んでいったら?」
「……ハガネを待たせることになるんじゃないのか?」
「アンクウが淹れる紅茶って、すごく美味しいんだよ。……先に行ってる」
 女は笑って、席を立った。つかつかと迷うことなく、ドアに向かっていく。
「待ってくれよ。どこに行けばいいんだ」
「ドアを開けて」
 それだけ言い残し、女はドアの向こう側へと消えた。
 ドアの向こう側は――少し散らかった丞の1DKではなく、どこかの街の裏路地だった。
 呆気に取られる丞の前では、紅茶の香りだけが信頼できそうなものだった。


 ドアを開けて。
 そう言っていた、鋼色の女の何気ない顔を思い出しながら――丞は店のドアを開けた。ドアの向こう側には、先ほど見たばかりの裏路地があった。丞はきょろきょろとせわしなく辺りを伺いながら、ドアの向こう側に歩み出て――ドアを閉めた。
 背後のドアは、古い店の従業員入口だった。丞のマンションの玄関ドアではなく、また、 『死者の国』のドアでもなかった。
 旨い紅茶の味が、かすかに口の中に残っている。忘れることは出来そうになかった。何もかも、この夜のことは、きっと忘れることは出来そうにない。あの夜の出来事が、夢の続きであるかのようで――丞は呆然と、唇を拭った。
「顔を上げて! 前を見て!」
 女の声が鼓膜に突き刺さる。言われるままに、反射的に、丞は顔を上げて前を見た。
 あの夜のように叫び声を上げた。
 視界一杯に広がったのは、すべての毛を剃られて、生皮が真っ赤にカミソリまけしたラブラドール・レトリーバーの顔面だ。腐り、膿爛れた生物の悪臭が鼻をついた。その牙だけはまともだった。何もかもが腐っているのに、その牙だけは――
「信じて! ハガネとあたしを信じて!!」
 無理な注文だった。
 ――初めて会った女と、キリコをぶった斬ったオッサンだぞ。どこをどうやって信じろって言うんだ?
「ぅお、ぅおおぉおおおぅおぅぅぅおおおおおおおおおぁあああああぁぁああああああああああああああああああああああぁぁぁああああああああああああああ!!」
 ざシん!

 刀の切っ先が、丞の鼻先の3ミリ手前で静止した。刀は、背後から狂犬の頭蓋を貫いて、斬り下ろされていた。哀れな恐ろしい腐犬は、どうと倒れ――しばらくの間痙攣していたが、やがて夢のように消えていった。丞の記憶に禍々しい爪痕を遺しただけで、この世からはまず間違いなく消え去っていった。
「信じたな、いま」
 静かに日本刀を引いたのは、丞がここ何日かずっと忘れることの出来なかった男だった。
(キリコ)
 『死者の国』が抱える黒衣の狩人たち。
 その頂点に立っている者。
 鋼の瞳と
(キリコ)
 どこかの国の悪夢とも呼ぶべき、軍服姿を持ったハガネ。本名など、知ったことか。ここでは彼はハガネで、丞はジョーなのだ。
「考えたことがあるか、自分が何で生きてるのか」
 いつかと同じように、煙草に火をつけながら――ハガネは口を開き、唐突にジョーに問い掛ける。
「オレはな、真剣に考えたことがなかった。40で、この仕事を始める前までは。始めてからは、よく考えるようになっちまった。答えなんか出やしないのに。でも、何にも考えないでトラック回してた頃が、情けないような、ばつが悪いような、そんな感じに思えるようになってきてな――そのうち、恥ずかしくもなってきた」
 ジョーは何も言わず、ハガネは煙を吐いて、ぼそぼそと続けた。
「人生を無駄にしてたってな、今じゃそう思ってる。今のオレはこの仕事をやってないと生きていけない。生きる意味になっちまった」
 ジョーは、疾風のように考えた。
 あんたは言ったじゃないか、自分が何で生きてるか、その答えなんかみつからないって。
 だが、ハガネはもうみつけてしまっている。
 ジョーは、人知れず拳を固めた。
「……ああ、こんなに喋ったのは久し振りだ。……よろしくな、ジョー」
「よろしく?」
 ジョーは手を伸ばす。
「勝手によろしくしてろ。おれのキリコを殺しやがって。あいつはただ、おれに謝りに来ただけなのに!」
 言いながら、手を伸ばしていた。

 ジョーの手は力強く、ハガネの首を掴んでいた。ぞっとする感触に、ジョーは口元を引き攣らせた。ハガネの首筋を走る傷痕の感触は、とりわけ恐ろしいものだった。もう塞がっていてだいぶ経っていそうなものなのに、なればこそ、いやな感触なのだった。その部分だけが、他の組織と違っていた。いちど壊れて、無理矢理繕われた肉と皮膚があった。
そして、人間の首は、温かかった。ハガネは男で、もういい歳であるから、喉仏も飛び出していて――
うくッ、とハガネが息を呑み、――いや、息はその時止まってしまったのだ。無骨な手から日本刀が落ちた。仲良く、煙草も落ちていった。
「ちょっと、何してるの?!」
 鋼色の目の女が、どこからか降ってきた。実際には、そばのビルの屋上から飛び下りてきたのだった。6階建てのビルの屋上から飛び下りてきた女は、そのまま走り出した。首を締める男と首を締められる男に向かって。
「殺してやる。キリコを殺しやがって」
 ジョーはその手に力を込めた。
 おれはこの男を殺すことが出来る。ああ、出来る。キリコの仇をとることが出来る。

 オレは、死ぬことはない。

 ふたつの信念がぶつかって、ハガネがはあッと息をつき、その目を開いた。瞳の色は人間のものではなかった。猫か蛇のもののような、禍々しい金。
 ジョーの正気がたちまち戻ってきた。恐怖心までもが首をもたげた。ジョーはあッと声を上げると、思わずハガネの首から手を離した。ジョーとハガネの間に、鋼色の目の女がさっと割り込む――女はジョーを睨みつけた。
「おっかねエもんだな、闇ってのは」
 ハガネは咳込みもせずに(実際のところ、ジョーが首を締めていたのはほんの数秒だったのだが、いまのジョーの手がぎちぎちと強張っているほどに、凄まじい力で締め上げていたのだ)、喉を撫でながら呟いた。
「人間を簡単に殺す。生かしもするし、病みつきにもさせる。――おっかねエから、消さずにはいられねンだ」
「仕事をやりたくないなら、忘れて」
 女はジョーを睨んだまま口を開いた。その声色には、明らかな嫌悪感があった。
「そのコートと手帳をしまっておけば、いつか回収されるから。手元からものがなくなれば、ひとは全部忘れられるでしょ? そんなものだもの」
「おまえの女は死んだんだ。それは覚えておけよ」
 ハガネは――
 ジョーの背中に声をかけた。ジョーはすでに、ふたりから目を逸らし、踵を返していたのだ。
「あの女じゃない、オレが殺したのは。殺したのは、女の残り粕だ」

 ――そうとも、俺の後悔と期待だった。あんたはそれを、たった1発でぶち壊してくれたんだ。

 帰りたい、今夜のことを全部忘れて、帰りたい。
 ジョーはそう思いながら、ここに来るために開いたドアを開けた。ドアの向こうは、少し散らかった丞の1DKだった。
 ――おれはあいつのことが好きだったんだ。ちょっとバカだった。クッキー作んのは上手かったけど、あいつの料理は食えたもんじゃなかった。ギョーザにバニラエッセンスなんかかけやがって。……でもおれは、あいつのそういうところが好きで……もう一度会いたいと思ったんだ。デュラハンみたいなあいつでもいいから、会って、「言いすぎた」って……!
 丞はそこで、黒いコートを着たまま跪き、ぽろぽろと涙を流したのだった。
 インターホンが鳴った。
 玄関ドアの向こうで、アマゾンからの荷物を持った宅配業者が待っている――


「で、父さん、大丈夫?」
「遅くねエか? 心配するのが」
「首締められたくらいじゃ死なないでしょ?」
「おまえ、そう思ってるのか」
「うん、あたしはそう信じてる」
 ハガネはふわりと微笑んで、そっぽを向きながら新しい煙草をくわえた。
「なら、オレは死なないな」



 知ってるか? 「黒コートの男」の話。
 夏でも黒いコート着ててな。丈が長くて、ほとんどマントに見えるほどなんだと。それで、どっかの国の軍人がかぶってるような帽子をかぶってて、日本刀を持ってるんだ。
 夜中の2時、わりと広めの道路のわきに立って、煙草を吸ってる。
 目が合っちまったらな――そいつはこう言うんだ。
『オレのことを忘れろ』って。
 ……。
 あ? そんな強烈なヤツ、忘れられねって?
 まあ、別に忘れなくても死ぬとか呪われるとか、そんなことにはならないみたいだけどな。
 なに? つまらない?
 それじゃ、『忘れないと殺される』ってことにしておけよ。



 しかし、五十嵐丞のクローゼットから、黒コートと手帳が消えることはない。





(了)




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