■MORI■




 私のタイムカードが古いタイムレコーダーに吸い込まれて、また出てきた。私はまともにタイムカードの印字を確認せず、大急ぎでラックに戻した。
 私が勤める会社はなにもかもが古く、パソコンやデスク、タイムレコーダー、はてはホチキスに至るまで、おおよそ20年前に購入したものなのではないかと思えるほどだった(いや、パソコンに関しては、それは大げさな言い方だろうか。20年前のパソコンなど、動くはずもないではないか)。私は古い会社から、転がるような勢いで飛び出した。急いで向かわなければならないところがあったのだ。自宅とは反対方向にある病院だった。
 私の旧友が――数少ない友人の一人なのだ――事故に遭い、私の名を呼んでいるのだという。彼には家族らしい家族もなかった。家族の代わりに、私を呼んでいるのか。
 こんなときに限って、私は残業を入れていたのだ。肉親の危篤であっても有給を出してくれないこの会社であるから、親友の危篤に際し、私は残業を切り上げることもできなかった。許されなかったのである。
 ――いや、許されただろうか。正直なところ、私は、どうせ許されないだろうと考えて、上の者に掛け合うこともしなかったのだ。
 私は、この古い会社の古い人間だ。ホチキスやタイムレコーダーとともに、20年をこの会社で生きてきた。今夜事故に遭い、生と死の境をさまよっている親友は、30年の付き合いになる男だった。

 私はいつもとは逆の道を、車で走る。
 私の自宅と親友の自宅は、地図で見ると、市の対角線上にあるも同然だった。親友が住んでいる東区には、普段の生活でも、私が足を伸ばすことはめったになかった。彼と会うのはもっぱら繁華街の飲み屋や喫茶店であったし、東区には、言うなれば、なにもないのである。
 東区の面積の大半を占めるのは、鬱蒼とした森だった。
 もとより、市とはいえども片田舎なのだ。駅前から車を10分も走らせると、周囲は畑や森ばかりになる。
 東区にせり出す森は、なにか貴重な植物や動物が生息している地域だという話だ。人の手が入っていないところも多かった。奥では松茸が採れるという噂もあり、遊歩道もあちこちに設けられていて、昼間は森林浴を楽しむ中高年の姿があるのも当たり前なのだが――夜は、ちがう。
 いまのような夜は、まったくちがう。
 曲がりくねる道を照らす街灯は少なく、私のローレルのヘッドライトが頼りだった。空には月も星もなく、空と森との区別はまったくつかなかった。私は、闇を切り裂いて進んでいた。しかし闇は、切り裂いた端から癒合し、混ざり合い、ふたたびひとつになっていく。こんなときに限って、私はこの森についての暗い事実を思い出したのだった。
 自殺の名所だという話だ。ここは。
 市の中にあるというのに、AMラジオの電波でさえ拾えなくなることがある。磁石が利かなくなることもあるという。一度迷いこめば出られないし、そう、見つけられることもない――。
 この話に尾ひれがついているのはまちがいないが、毎年必ず二、三体の遺体が発見されているというのは事実だ。磁石云々の話はともかく、遺体が出たという話は、間違いなく地方新聞に載るのだから。
 よほどの物好きや、好奇心旺盛な若者を除けば、夜のこの道を通りたがる者はいないはずだ。車窓やエンジン音をつらぬいて、枝ずれの音が聞こえてくるような気がする。私はこれまでの生涯で、幽霊や妖怪の類は一度も見たことはなかったが、夜のこの森を何度も行き来していれば、いずれは遭遇するはめになるだろう。
 だから私も、夜のこの道を通りたくはないのだ。

 突然、ヘッドライトが照らしだした姿があった。

 思わず私は息を呑み、ブレーキペダルを踏みこみかけた。
 驚き、飛び上がっている間も、車は走り続けていたので――あぶないよ くるまはきゅうに とまれない――彼らとは、すぐにすれ違ってしまった。
 ヘッドライトが照らしたのは、一組の男女だ。
 私は恐々とルームミラーに目をやり、安堵し、思わず苦笑する。不気味なものを見て、振り返ったときにはその姿が消えていた――というのは、よくある話だ。しかしそのとき私が見た男女は、ルームミラーに一瞬映っていたのである。幽霊ではなかった。
 人間だった。
 安堵も束の間、その事実に、私は思わず、今度こそブレーキペダルを踏んでいた。
 手をつないだ男女だった――男はジーンズにTシャツ、女は臙脂色のワンピースといったいでたちだ――彼らは手ぶらで、微笑んではいなかった。こんな夜中に、こんな道を、何のつもりで散歩しているというのだろう。そんな深刻な顔をして。
 対向車もめったにない道であるから(事実、この森の中を走り始めて一〇分、私はただの一度も対向車とすれ違うことはなかった)、今すぐにでもUターンすることができる。Uターンして、男女に声をかけることもできるだろう。
「どちらまで行かれるんです? ここからだと、一番近いコンビニに行くにもあと一時間近く歩くことになりますよ。送りましょうか」
 営業用の笑顔で声をかける自分を想像して、私はアクセルを踏みこみながら軽くかぶりを振った。今は、急がなくてはならないのだ。それに私は、一刻も早くこの森を抜け出したい。この森は恐ろしい。私を待っている者がいる。
 私はもう一度ルームミラーを見てみたが、男女の姿はとうに暗闇の中に融けていた。


 親友は亡くなっていた。
 最期まで私の名を呼んでいたのだろうか。





 私は初めて会社に嘘をついた――『親戚』が亡くなったと、言ったのだ。『親友』の葬儀には出させてもらえそうもなかったからなのだが、嘘をついても、私の胸は痛まなかった。或いは、あの親友は、私にとっての肉親であったのかもしれない。
 葬儀に出たあと、私は日常に戻り、仕事を続けた。目の前がぼんやりしているような曖昧な日々が過ぎていった。親友が死なずとも、もとより私の生活というものは、はっきりとしたかたちを定めていないものであったような気がするのだが。それもこれも、私がこの歳になるまで所帯を持たずにいたからなのか。
 今日と明日が何月何日なのかも見当がつかない日々が過ぎていった。
 その中で私は、得意先の近くにある交番の掲示板で、一枚のポスターを見たのである。
 尋ね人だった。……男と、女だった。
 何気なく顔写真を見たそのとき、私は悪魔か鬼に心臓を鷲掴みにされてしまった。
 鍋の底の焦げのように、私の記憶から離れない、あの暗い暗い顔。尋ね人の張り紙の中で笑っている男女は、あの悪夢のような夜に、森の道ですれちがったふたりに違いなかった。私は張り紙から目をそむけた。一刻も早く、この場から立ち去りたかった。
 そうしてどこへ行くべきか。
 私は車で逃げていた。


 昼下がりの森が、私をいざなう。森になど入りたくはなかった。入ったところで、目的などなにもないはずだ。あの男女を探そうとしていたのだろうか。私が彼らを見たのは、もうかなり前のことだ。何月何日に見たかはよく覚えていない。確かなのは、親友が死んでしまった日のことだという事実だけだ。
 古い遊歩道が、樹木の根の中で腐っている。
 まだ、人の手が入ったことのある場所らしい。しかし私の視界を覆うのは、緑、濃緑、黄緑、緑であった。私の十数倍も背が高い木々が、私の数倍の長さの枝を伸ばし、私の細胞の数以上の葉でもって、空をさえぎってしまっている。暗い地面で息づくのは、苔や黴、茸だった。
 私は着の身着のまま、わけもわからずに歩き続ける。暑さも寒さも感じない。
 あの男女は、昼間でさえ不気味なこの原生林に、深夜分け入ったというのか。
――もしかしたら、あの車道を歩き続けて、街の西側へ――東京へ向かう道へ進んでいったのかもしれない。
 あのふたりはここで心中をしたに決まっている、と思っているはずの私は、器用にもそんな前向きな考えを捨てていなかった。ふたりの行方をたずねる張り紙、深夜の目撃、暗い表情――すべての因子が、ふたりの死を裏付けているではないか。そして私は、あのふたりに声もかけずにすれ違ったのだ。
 ふたりを知っていたわけではないし、私は急いでいた。
 しかし私は、ありとき、なにかできたのではないだろうか。
 胸に穿たれた穴を、私は緑でうずめようとしている。なにかしてやりたいのだ。親友が唐突に死ななくてはならなかったあの夜、死というものに自ら向き合おうとしていたに違いない男女。ふたりを助けたい。
木々の嘲笑はバグパイプの音色のようだ。昼下がりの闇は、まさにマグリットの『光の帝国』である。私はシュールな絵画と音楽の中をさまよい続け、ついに、緑とは異なるものを見つけてしまったのだった。
きれいにたたまれたTシャツとジーンズとトランクス、臙脂色のワンピースとブラジャーとショーツ。服の前には、汚れたスニーカーとサンダルが置かれていた。私は思わず叫び声を上げたが、長いこと口で息をしていたためか、声はかれて間抜けなものになっていた。
樹がある。なんの樹だろうか。
 その太い幹の根元は、いやに黒ずんでいた。私はその場から動けなかった。黒ずんだ地面から突き出している黒いものは、枝や草ではないのだ。
 枝が、指輪をはめているはずがない。

 私はかすれ声でわめきながらその場を逃げ出していた。木の根につまずき、転び、土とカビにまみれながら、私はひとしきり、必死になって走った。警察、警察、警察!

 しかし何度目かの転倒で、私は我に返った。あの黒焦げの死体は、あの夜に見た男女の成れの果てに違いあるまいと冷静に考え、記憶を手繰り寄せることさえできた。
 ……確か彼らは、手ぶらだった。どちらかが煙草なりライターなりを持っていたかもしれないが、服は脱いでたたんであったではないか。髪にでも火をつけたというのか。焼身自殺といえば灯油という印象があるが、ふたりは灯油缶など持っていなかった。一体どこで、死ぬための道具をみつけたというのだろう。
 私のその疑問は、すぐに解けた。
 同時に新たな疑問を生むものだったが。


 私もまた、おそらくあの男女のように、見つけだしてしまったのである。
 森の中に積まれたロープの山だ。ロープは汚れ、蛇のようだった。ロープの山の傍らには、一斗缶が積まれていた。一斗缶には、セロテープで100円ライターが貼り付けられている……。
 ロープと一斗缶の山の前に、カビが生えた立て札があった。
 雨と湿気で流れ落ちかけた、黒い文字がそこにある。

『ご自由にお使い下さい』

 下に流れている黒のインクは、まるで血か涙のようだ。
 私は呆然と立て札を見つめていた。一体誰が、どんな目的で、こんなものをこんな森の真ん中に置いていったのだろう。ロープの山には、一振りのナイフが刺さっていた。これで必要なぶんだけロープを切れと言っている。
 風が吹いて、私は森の中で揺れる、枝や葉以外のものを見てしまった。私はまたしても悲鳴を上げた。揺れているのだ。枝の下で、スーツを着た白骨が。枝にしっかりと結わえられ、その頚椎に引っかかっているのは――ロープなのだ。ここに山と積まれているロープなのだ。
 この森はなにをしようとしているのだ。
 私の叫び声は怒号だった。
 私は一斗缶を取り上げ、蓋を開けた。中にはなみなみと灯油が入っていた。私はそれをロープの山にかけた。山ほどある一斗缶をすべて開け、まんべんなく、容赦なく、私はロープの蛇に灯油をかけ続けた。そして、100円ライターで火をつけたのである。
 黒い炎を上げてロープの山と灯油は燃え上がった。風が狂ったように吹き荒れている。
 私が死ぬためのものはこれで失われた。
 私の明日からの毎日も、古びたタイムレコーダーに食わせるべきタイムカードも、服も、車も、親友でさえも、なくなった。私が生きるためのものは失われてしまった。私は結局、私でさえ助けることができなかった。

 私はそこに腰を下ろし、たった独りで考える。誰も私の物思いを邪魔することはない。
 そもそもここはどこなのだろうか。車道は、私のローレルは、どの方向にあるのか。見上げても、星と月は枝の向こう側だ。
 ああ、いつの間にか、夜になってしまっているではないか。
私は一体、どうしたらいいのだろう。黒い煙と死体に見下ろされながら、私はただ、頭を抱えた。
 やがてこの背に声がかけられるのだろう。
「おまえ、一体、どうする気なんだ」
 と。
 私は、答えを用意しておかなければならない。



〈了〉