さらば昇竜


 それはまだ、ミクニテツという男が30になったばかりの頃だったか。ひょっとすると29だったかもしれないし、もっと若かったかもしれない。彼自身が鮮明に記憶しているのはその出来事だけで、ことが起きたのがいつ頃だったか、そのあたりの記憶は曖昧だった。
 まだ彼のトラックは黒塗りで多少バンパーがいかついだけだった。デコトラと呼ばれるにはまだ至らない、加えて言えば渋いと呼ばれることもない、地味なトラックだった。国道を眺めていたら、一時間に何十台見かけることやら。
 ただ彼は、いまと変わらず真面目にせっせと働いていた。おかげで自由に使える貯えができ、そろそろ殺風景な荷台に何か彩りを加えようかと思っていた頃だった。

 ミクニが勤めている隼運送はそれほど大きな運送会社ではなかった。ただ特色があると言えば、派手なトラックを多く抱えていることか。アートトラックとも言うし、俗にはデコトラと言われているものだ。
 ミクニは先輩たちのトラックがそれはまあ羨ましかった。自分もあの高みに登るために日々真面目に働いていたと言ってもいい。そう、この頃から彼は家族よりトラックだった。第三者にそれを咎められても開き直るほど、彼はトラックが好きだったのだ。
 そんな彼の一番の憧れは、シマダという男と、その男が持つトラックだった。色はミクニのものと同じ黒系だ。電飾も控えめだった。ただミクニが惚れていたのは――荷台に描かれた龍だ。ミクニのトラックの荷台が銀色のままだったのは、その龍とシマダに遠慮していたからだった。シマダは先輩だし、あの龍の絵は何処か有名な絵師に頼んだものだとかで、畏れ多くて真似などできなかった。かといって他の絵で妥協するのも嫌だった。ミクニは普段あまり自己主張をしない分、内に秘めた感情は、厄介なほど強い。

 そしてある夏の半ば、事件が起きて――
 ミクニはトラックの荷台に龍を呼び、
 シマダが死んだのだ。


 シマダキイチが某高速で事故死して1週間。
 シマダの見事なトラックもすっかり解体された頃だ。
 口裂け女や人面犬と同じ、都市伝説が生まれていた。隼運送の間でだけ、だったが。

 事件のあった高速を通ると、あの黒塗りのトラックが追いかけてくるのだという。実際追いかけられ、無線もおかしくなり、ほうほうのていで高速を抜け出した社員もいた。彼はスピード違反でキップを切られた。おまけに三日間ショックで寝込み、欠勤した。真実味はあるかもしれない。
 シマダは会社の中でも面倒見がいいことで人気者だったというのに、今回の件で株は暴落した。もちろんそんな噂が流れる中でも、頑なにシマダを信じている者も居た。例えばミクニだ。
「おれたちを連れてく気かもな」
 食堂にてひそひそと青い顔を寄せ合う同僚たちを、ミクニは一蹴したものだ。
「……そんなわけあるか。いい人だ、キイさん」
 彼はもとより無愛想な顔をますます難しくして、それを主張し続けていた。
 そんなことだから、余計な仕事も頼まれたのだ。

 仕事も終わって本社に戻ってきたミクニを捕まえたのは、少しばかりうっかり者の事務長だった。この男のせいでどれだけ隼運送の社員が配送ミスをしでかしたかわかったものではない。ミスをして得意先に怒鳴られるのはいつも現場の社員だ。しかもこの事務長、人がいいだけに始末が悪かった。
「テッちゃん、悪いけどこれから大熊物産行ってくれないかい」
「……大熊」
 県を二つも隔てた港にあるお得意様だ。現在午後5時。残業もいいところだが、この職ではよくあることだ。しかし、
「オレは昨日も午前様です」
 ミクニはいつもの顔のままで溜息をついた。
「空いてるの、居ませんか、他に」
「それがさ……ホラ、大熊ったら……」
「ああ」
 噂の高速を通らなければならない。
 なるほど、皆同僚の幽霊に追われつつ真面目に仕事をするより、仕事をサボって社長にどやしつけられる方を選んだというわけだ。ミクニはシマダの事故以来、偶然にもその高速を一度も通っていなかったので、幽霊騒ぎを一蹴することも出来た。
「テッちゃん、幽霊怖くないんだってみんな言ってるよ。だからさ」
「ンなこたない。ふつうです」
「ふつうって?」
「信じてないわけじゃない。見たらきっと大声出す。でも今まで見たことない。そういうことです」
「じゃ、行ってくれるかなァ……」
 事務長は困り果てている様子だった。あいにくミクニは困っている人間を無視するのが苦手なたちで、今回もその疲れる仕事を断ることが出来なかった。

 荷物を積んでからミクニが高速に入ったのは、午後7時をまわった頃だった。
 シマダは対向車と正面衝突をして、フロントガラスで頭を割ってしまったのだ。相手は奇跡的に命をとりとめたが、警察のご厄介になっている。その相手というのもまた大型トラックで、しかも飲酒運転ときたものだ。
 シマダに非はなかった――怨みがないこともないのかもしれない。
 だが彼は、さばさばしたいいやつだった。死んだのちにもずるずると愚痴や文句を引きずるような男ではなかった。ミクニはそれを知っている。
 とはいえ、親しい人間が死んだ現場を通るのは気持ちのいいものではない。たまにガードレールに添えられた花束を見たら、たとえその場で死んだ人間が知人でなくとも、いやな気分になるものだから。
 ラジオの音量を心持ち大きくして、ミクニはトラックを走らせていた。大して興味もない歌が、気を紛らわせてくれるのを期待していた。

 ああ、ここだ――

 きっとそうだ。ブレーキの痕と、ガードレールの黒い染み。
 ミクニは見てしまった。ラジオは気晴らしにならなかった。シマダが命を失った場所が遠ざかっていく。誰から教えられたというわけでもないのに、ミクニにはわかってしまった。あの場所でシマダは死んだのだ。
 小学校以来泣いたことがないミクニは、懐かしい感覚に襲われた。
 唇は勝手に震えるし、目元がくすぐったいし、鼻が急につまってくるのだ、
 前がゆらりと見えなくなって、たまらずまばたきをすると――
 涙がまつげを濡らすのだ。

『……テッちゃんだろ』

 ざりざりという耳障りな雑音に混じって、いやに懐かしい声が無線に飛びこんできた。
 ミクニは目を拭う暇もなく、ハッと息を呑み、無線に目をやってから――さっとバックミラーに目を向けた。
『……どこ行くんだ? 大熊か? 大変だな。……俺も、大熊だ。まったく、5時過ぎの配送なんて、明日にまわせっていうんだよ』
「……キイさんか?」
『なに? いまさら俺だって気がついたのか? 俺の声、そんなにおかしいか?』
 おかしいとも。ミクニはそう思ったが、言葉は喉に詰まって出てこなかった。全身の毛はとっくに逆立っているし、涙は引いているし、先ほどとは違う感情が、唇を震わせているのだから。
 しかし冷静に考える力も信じられないことに残っていて――この場合シマダの声がおかしいのではなく、シマダの声が聞こえること自体がおかしいのだということ、そんなどうでもいいことを落ち着いて考えていた。
「き、キイさん……大熊に行くのか」
『二度も言わせんのかい』
 ざりざりと雑音をまとうシマダの声は、文句のわりには笑っていた。
「あ、あんたは……あんたは……」
 ――信じてないわけじゃない。見たらきっと大声出す。
 自分はそう思っていた。幽霊を目の当たりにしたら、きっとそうすると。だが実際そのケースに直面してみたら、この通りだ――まともに言葉さえ出てこない。
『随分遅いな、テッちゃんよ? 明日の朝になっちまうぞ』
 ぶぁん、と後ろでシマダのトラックが吼えた。
 そうだ、後ろにトラックが居るのだ。
 汗みずくになりつつもミラーで確認した。自分のトラックと同じ6t。黒塗り。だが、電飾の光はまともではなかった。ぼんやりと光りながらも目に焼きつく、まるでそれは燐の焔。もちろんミクニは人魂などそれまでに見たことはなかったが、今まさに見てしまっていた。あれを人魂と呼ぶのだ。たぶん。
 そのライトは、出し抜けにミラーから消えた。
『ほら、邪魔だ。俺は急いでるんだ。おまえも急いでるんだろ? ほら、急げよ』
 轟音を上げて、黒塗りのトラックがスピードを上げた。このエンジンの唸り、シマダはシフトアップしたらしい。轟音はさらに大きくなり、近づいた。
 ミクニのトラックの横に、シマダは己のトラックをひたりとつけて――煽るように、スピードを上げたり下げたり――ああ、龍が見える――荷台の龍が荒波をかきわけている――龍の金色の眼は、ぎょろりと動いて――ミクニを見つめ、にたりと笑った。
「キイさん! あんたはもう死んだんだ!」
 惚れていた女を捨てるが如く、
 蜘蛛の糸を手繰る友を蹴落とす罪人の如くに、
 ミクニはハンドルをきり、並走しているシマダのトラックに体当たりをした。
「あんたはもう、運ばなくていいんだ!」
 無線はざりざりと叫ぶばかりで、シマダの明るい声も届かない。
「オレに任せてくれ! あんたの代わりに、いくらでも運んでやる!」
 シマダのトラックのスピードは急速に落ちた。あっと言う間に車窓の中から消え、ミラーにかろうじてあの人魂の光が映りこむ。
 シマダの声は届かない。
 ミクニのトラックの後ろで――シマダの黒い愛車は、出し抜けにその形を失った。今や、黒い霧だった。否、黒い龍だった。
『急げよ、テッちゃん。得意先を、待たせるなよ。俺みたいに、待たせるな――向こうは急いでるんだから』
 龍は少しだけ、ミクニのトラックの横を飛んでいた。
 ミクニは龍の姿や鱗や表情を、はっきりと見届けることはできなかった。涙が堰を切って流れ出していたから、前方でさえまともに見ることは出来なかったのだ。
 ――まずいな。
 乱暴に、素早く涙を拭うと、ミクニはハンドルをしっかりと握り直した。
 ――オレも事故っちまうぞ。さっさと泣きやめよ、テツ!
 龍は消え失せ、見えるのは今や、無愛想な高速のガードレールだけだった。ラジオがミクニの好きな歌を流しているということにようやく気がついた。寺尾聡だ、タイトルは……思い出す余裕が今は、ない。


 さて、今となっては――あれから10年以上経ってしまった今では――龍を見るたびにシマダを思い出すということもない。龍はミクニのものになった。見ても思い描けるものはない。この荒波を乗り越えんとしている龍は、自分だ。
 駐車場に停めた自分のトラックを眺めている学生がいる。その光景を、ラーメン屋の窓から眺めているミクニがいた。学生が引っ掻き傷でもこさえようという態度を見せたならば、即座にとんでいって叩きのめす。学生が写真を撮りたいというのならば快く無表情のままで承諾する。ぼんやりとキャビンを燻らせながら、ミクニは学生を見ていた。学生はしばらく龍を見上げていたが、特に何をすることもなく立ち去った。
 ――ぅおい、坊主。その龍はな、ただの龍じゃアないんだぞ。まア、話せば長くなるけどな――
 そのぼやきは、名も知らぬ学生に届くことはない。



<了>

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