■今年の防衛戦■




 今日も東の空が憎い。
 白く凍った山が見える。

 高校でも大学でも山岳部だったわたしの兄は、冬の山に登って、帰ってこなかった。でも、世間はまだ秋だった。ただ、高い山のいただきに、冬が一足早くやってきただけ。
 兄は山を知りつくしていたけれど、驕りはしなかった。冬の山のおそろしさも知っていたから。兄はもう家を出て、小田原で一人暮らしをしていたから、当日どんな装備で山に向かったのか、わたしは知らない。安易な装備ではなかったことだけは確かだ。兄が持っているリュックの中でもいちばん大きいものが、兄の家からなくなっていた。
 兄が冬の山に行き、姿を消してしまってから、3年が経った。
 けれども、3年間、はっきりとした兄の死の確証があったわけではない。きっとどこかで生きている、と思っていた。どこか、小田原ではない、そう――大好きな山間ののどかな村で、隠者のように世を捨てているのではないかと前向きに考えようとしていた。
 3年前、兄は、「3年後にはヒマラヤに挑戦するつもりだ」と言っていた。それが本気だったのか冗談だったのかはわからない。兄はビールを飲みながらそう言ったのだ。酔ってはいたけれど、目は真剣だったような気がする。それに、冬の山に挑んでいったのも、ひょっとすると本当にヒマラヤに行く気だったから、せめてもの予行演習のつもりだったのかもしれなかった。
 ミイラ取りがミイラになった……ということわざは、当てはまらないだろうけれど。
 ニュアンスが、兄にはなんだかふさわしいことわざであるような気がする。

もうわたしもとっくに就職して、ひとりで生きていける大人になっていた――でも、兄は、わたしの唯一の肉親だった。わたしたち兄妹が幼い頃に父親は交通事故で逝き、わたしが高校を卒業する大事な時期に、母親が子宮癌で逝ってしまった。しばらくは兄がわたしを養ってくれた。
 わたしが西武デパートの従業員になっても、兄は変わらず、わたしの兄だった。わたしはひとりで生きていける大人になったはずなのに、兄とともに生きていた気がする。わたしはひとりではなかった。
 いまは……
 いまは、本当に、たったひとり。ひとりに、なってしまっていた。


 今年の冬が始まろうとしている。
 わたしのハーフコートの背中に、一枚の枯れ葉がくっついていた。帰宅してコートを脱いだそのとき、かさりと枯れ葉が廊下に落ちた。
 枯れ葉を拾ってゴミ箱に持っていくそのとき、わたしは、ああまた冬が来るのだな、とため息をつく。冬は嫌いだった。寒さに弱く、兄を冬に失ったわたしは、スキーやホワイトクリスマスを楽しめない。ぬくぬくとした屋内でこたつに入り、テレビを見て過ごす。友人は冬のわたしの部屋を訪れると、きまって、「暖房の入れすぎだ」と注意してくる。それほどわたしは寒さに弱いし、寒さを恐れ、寒さを憎んでいる。冬の間の買い出しや通勤は苦痛だった。一年ごとにやってくる冬とまみえるくらいなら、死んでしまったほうがましだと考えることもある。
 きりきりと、締めつけられるようにして痛む耳と鼻。凍る息。ふるえる指、まっかに染まる指先と顔、こみ上げてくる涙。いくら着こんでも、顔はどうにもできない。わたしたちは、冬に対してあまりにも無力だ。
 わたしは玄関のドアに鍵をかけ、チェーンもかけた。兄と二人暮しをするようになってから、戸締まりには神経質になっていた。兄が、戸締まりにうるさかったのだ。ひ弱なわたしを心配していたのだった。
 わたしは冷えた居間に行き、こたつのスイッチを入れ、エアコンの設定温度を30度に上げた。
 まだ3時半だというのに、東向きのこの部屋は薄暗い。日も短くなっている。カーテンを閉め、明かりをつけようとしたわたしは、窓の向こうにある光景に、目をうたがった。


 かさかさと乾いた音をたて、街路樹の枝から、枯れた葉という葉が落ちていく。
 ちがう。
 風が枝から葉を無理やりもぎ取っている。
 わたしの手がほとんど無意識に動き、窓を開けていた。ただでさえ冷えた室内に、頬を切るような木枯らしが侵入してきた。風は電線に切られて、寒々しい、甲高い音を立てていた。
 からん、からんという音は……この、身を切るようなつめたい風に転がされている、空き缶の音だろうか。
 東向きの窓から見えるのは、冬の日暮れの住宅街であり、山やまだった。そしてその山たちは、普段よりもずっと大きく、近くにあるように見える。山が近くに寄れば、近いうちに雨や雪が降るという――。
 かつん、こつんという音は、その風の中央にいる男が立てていた。
 この平成に、往来を軍服の男が歩いている。
 白と灰色の軍服と、白い毛皮のコートを着た軍人が、平成の日本の、なんの変哲もない住宅街を歩いている。木枯らしを引き連れ、街路樹から葉を奪い、わたしの部屋に凍える寒さをもたらしながら。
 かつんこつんという音は、男の軍靴が立てる音。
 そう気温が低いはずはない。それに、ついさっきまでわたしは外を歩いていた。わたしの記憶が確かなら、わたしの口から漏れる息に、色などついていなかった。……けれど、白い軍人が吐く息には、くっきりと白い、冬の吐息の色がついている。
 男は毛皮のコートを着ていたし、手には分厚そうな革の手袋をはめていたが、すこしも温かそうには見えなかった。かといって、凍えているようにも見えない。白い息を吐きながら、彼は不意に足を止めて、わたしを見つめた。
 氷色の目をしていた。

 冬将軍。

 彼をまじまじと見つめ、そしてその氷色の目に見つめられたとき、わたしの脳裏にそんなことばが浮かび上がった。すでに、顔や指から感覚が消えている。ひどい寒さだった。
 冬将軍の頭上を、大きな鷹が舞っている。鷹。鷹は俳句のうえで、冬の季語。冬色の軍人は、わたしを見つめながら、しずかに――わたしのほうへ、歩いてきた。
 こないで。
 わたしは願う。
 こないで、おねがい。
 わたしは怖い。
 あの将軍こそが、毎年この国に冬をもたらすものだ。そして彼は――わたしの兄を、殺した。人間が彼に勝つことはできない。彼は自然のことわりそのもの。彼は百戦錬磨の軍隊も、たやすく撃破してしまう将軍なのだから。
「君は私を憎んでいるようだな」
 冬色の男は、わたしがいくら心の中で拒んでも、もう目の前に迫ってきていた。
 けれど、迫っている、というのはすこしおかしな言い方なのかもしれない。彼には、悪意も敵意もないのだ。彼はただ、さだめられているから、やってくる。わたしのそばにも、好きでやってきているわけではない。
「君は私を、ひどく嫌っているようだ」
 彼の声は、電線に切られる風の悲鳴。朝の冷えこみのささやき。降り積もる雪の沈黙。とてもとても冷徹な、年を取った将軍のもの。
「わ、わ、わた、わたしの、兄さんを……」
 いくら我慢しても、かちかちと歯が鳴る。冬が目の前にいるのだから。
 寒い。冷たい。……凍りそう。身体の芯まで……わたしの中を流れている血でさえも。
「あ、あ、あなたが、わた、わたしの、に、兄さんを……こここ、殺したん、でしょう! ひ、人殺し!」
「私は人間だけを殺しているわけではない」
 彼は無表情で、白いため息をつく。
「そして私は、殺すために来るわけではない。私が来ることで、多くのものが死ぬだけだ。……そう、私は。殺したくて殺しているわけではない」
 ああ。
 将軍というものも、そういうものね。
 わたしの兄は誰にも殺されてはいない。兄はただ、死んでしまった。冬将軍が来たために。わたしがいくら恨んでも、憎んでも、嫌っても……冬はめぐってくる。この国にいるかぎり、誰もこの将軍から逃れることはできない。
「私には意思などない。行かねばならぬ、行きたくはない、などとも思わない。私は来ることをさだめられているだけだ。君は意思も形も持たないものを憎むのか」
「じ、じ、じゃ、じゃあ……」
 もう、わたしの身体は、電気ショックを受けている人間のようにがくがくと震えていた。テレビで見たことがある。感電した人間の痙攣を、電気ショックで跳ね上がる瀕死の患者の身体を。わたしは冷気と寒気のショックを受けている。声を出して、冬将軍を怒鳴りつけ、殴りつけようと、心の中では勇ましくしていても、言葉さえまともに出てこなかった。かたかたかたかた歯が鳴るばかりで、情けなかった。滑稽だったかもしれない。
 けれど、そんな哀れで滑稽なわたしを、冬将軍は嗤わなかった。
「じゃあ、じゃ……」
「『ではなぜ、おまえはここに来たか』と問いたいか」
「……」
 わたしは頷いた。
 彼はかたちもこころも持たない。なにか大それたものごとを超えている存在だ。人間のこころを読むことも、ひょっとすると簡単にできることなのかもしれない。
「君の兄からの伝言がある」

 息が止まった。

「君の兄は、私の目の前で、君に対してこう言った。
『おれを恨んでくれ。おれは自分のことしか考えていなかった。おまえのことを考えていれば、こんな季節に、こんな山に登っていなかった。おれはヒマラヤに行くことばかり考えて、日本の冬の山をなめていた。日本の冬の山なら、いい練習になるだろうとしか考えていなかった。もしもこうして遭難して、死ぬことになったら、なんてことは考えなかった。もし死んだら、おまえが独りぼっちになるってことも、ぜんぜん考えてなかった。だから笑ってやってくれ。おれが死んだのは自業自得。おれが死ぬのは当たり前。本当にすまなかった。おれはおまえになにもしてやらなかった。おまけに死んでから、おまえを独りぼっちにする。おれを恨んでくれていい。どうか、恨んでくれ。どうか、幸せになってくれ。どうか……』」
 将軍は、録音されたテープを流すレコーダーのような声色で、まったいらな喋り方で、兄の遺言をわたしに伝えた。それから、びっしりと霜に覆われた手袋を、わたしに手渡してきた。兄のものだった。握りこぶしをつくっているその手袋を、わたしは開く。ぴしぴしと、霜が壊れてはがれる音がした。手袋の手のひらの中には、冷えきった鍵があった。
「何の鍵か、私にはわからない」
「…………う、うそ、うそよ。し、知って、るに、きききまってる」
 わたしの心の中を読み、兄の長い遺言を覚えていた。そんな存在が、鍵の秘密を知らないわけがない。
「泣くな」
 冬将軍が、無表情で呟いた。
「目が凍る。まぶたが開かなくなる」
「こ、こここ、この、この鍵……この、鍵……う、う、あ、あああああ……」

 冬将軍の背後に、白い雪の煙が舞い上がっているようだった。けれどもそれは、煙ではなかった。なんでもない住宅街の通りを、びっしりと白い色で埋めつくしているのは、将軍が指揮をとる軍勢だった。
 誰もが真っ白い顔をして、真っ白い軍服を着て、真っ白い帽子をかぶっていた。耳あてがついた帽子だった。軍人たちの顔ぶれは、意外なほどさまざまだった。男も女もいて、老人もいて、高校生くらいの子までいた。
 わたしは無表情なその軍勢の中に、兄の姿を見たような気がする。
 ああ。
 兄は、冬に往ってしまった。

「これ以上私がここに留まれば、私は君も殺すだろう。私はもう往く。私が次にここに来るのは、1月5日17時6分になるだろう。さらばだ。防衛準備を怠るな。さもなくば死ぬことになる」
 冬将軍は、わたしに背を向けた。
「戦いはいつでも受けて立とう、人間」
 するどい笛の音が、空に響きわたった。甲高い風の音のようにも聞こえた。電線に切られている風の声のようだった――。笛の音は、空に、軍勢に、町に溶けていく。鷹が空を舞っている。気づけば、冬将軍の前にずらりと整列していた白い軍人たちは消えていた。笛の音に引き裂かれたかのように、白い煙になって――
 空へのぼっていく。
 わたしは相変わらず歯を鳴らしながら、冬に死んだ人びとがのぼっていくのを見つめていた。白い軍人たちが変化した白いけむりは、たちまち空を覆いつくしてしまった。
 将軍が、氷でできた指示棒を空に向け、もういちど笛を吹き、音を立てて指示棒を振り下ろした。

 雪が、降ってきた。

 ついさっきまでの恐ろしい寒さは消えていた。冬将軍の姿も消えていた。身体の芯まで凍えかけていたわたしのまわりには、12月の関東にふさわしい寒さが降りてきている。シベリアに行ったことはないけれど、冬将軍が来ている間、この辺りは確かにシベリア並みの寒さの中にあった。
 シベリア。
 ちがう。
 ヒマラヤでもない。
 あの寒さは、兄の今際の際にあった寒さ。日本のどこかの、冬の山の寒さ。冬に死んでしまった兄は、もうわたしのもとに戻ってきてはくれないのだ。
 冬将軍は兄の望みを聞き、その代わりに、兄の魂を、恐らくは身体も、自分の陣営に加えてしまった。兄は自分勝手な人間ではなかった。すべてを引き換えにして、わたしに謝ったのだから。
 わざわざ、そんなこと、する必要もなかったのに。
 兄はいつもわたしのことを考えていてくれた。死ぬ瞬間まで考えていてくれた。どうして自分勝手だと言えるだろうか。
 わたしは鍵を握りしめ、窓を開けたまま泣き崩れた。
 鍵は、母を亡くして、ふたりで暮らしていた頃に住んでいた、アパートの鍵だった。

 雪が、開けっ放しの窓から室内に入りこんでくる。
 兄が窓から入りこんできている。

 おねがい、兄さん、鍵を開けるわ。玄関から、入ってきて。




〈了〉